以前にも記したけど。
エイプリルフールのウソは、当日中にバラさないといけないのが、ルール。
ウソも方便とは言うもので、ウソなら、まだ笑えるときもあり。
バカともなれば、手に負えなくなるときもある(逆かな?)。
さて、所謂(いわゆる)大人の事情というもので…。
生活の糧を得るためにしていたことは、
社会への貢献にもなっていない…と、実感するのはツラいところ。
もちろん社会が無条件で、自分の存在意義を、
認めてくれないのは分かっている。
とくに誇れるほどの学位や教養もなく、社会性も高くない。
それを卑下する気はないが、自慢できるものではない。
だから、自分は常識的でない人間だとも分かっている。
それも“常識外れ”なのではなく、
ただの“非常識”でしかないのだとも分かっていた。
それでも・・・。
「自分は良心に従って生きている」
「正しいものを知っている」という“思い上がり” が…、
どこかにあったのだろうか?
自分の感情を、言葉に置き換えたとき、見えるものもあり。
自分のウソに気付かされるようなときもある。
もちろん、ある程度は覚悟していたところだけど、ね。

そんな気分で、飲めよ、飲むな…と、もう一杯。
調子に乗って、また次の店。
酒のつまみにと、ウワサ話に仕事のグチ。
どれも尾ひれがついて、大盛り上がり…と思えば、
いつの間にか、重い雰囲気。
※もちろんコロナ過では、はしご酒などダメ!(途中から創作なのです。)
・・・などと、ネガティブな切り出しとなりましたけど。
要は(実は!)、飲んだくれたくなるような心境だということ。

「昼間から、酔っ払いが飲んだくれている店」
…という印象を与えるのは悪いから、もう少ししてから行ってみるかな?