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テレビアニメ、進撃の巨人:・・・と、フィクションにおける戦う意味


人類と敵対する巨人により、
滅亡の危機にあった人類は、
巨大な壁に囲まれた社会の中で生き残っていた。
・・・というコミック作品「進撃の巨人」が話題になったとき。
いわゆるダークファンタジーだと思っていた。
(ちなみにコミック版は、未読)

そんな人気コミック作品「進撃の巨人」は、ダークファンタジーというより、
ポリティカルな要素を含んだオカルト(ホラー)に近く。
テレビアニメ化されたことで、
「話題の作品だから、見ておくかな」という気持ちで見始めたかと思う。

「海があって・・・」
「海の向こうには、自由がある。ずっと、そう信じていた」
「・・・でも違った」
「海の向こうにいるのは、敵だ」

波音の中、水平線の先に視線を向けたまま、主人公は言葉を続けていく。
「なあ、向こうにいる敵、全部、殺せば、俺たち自由になれるのか?」
こんな言葉のまま、エンディングとなり。
シーズン終了となれば…。
テレビアニメのシリーズ作品としては、
次の物語を展開することもないだろうと思っていた。
しかし、物語は続くこととなり。
視聴者は、巨人に支配された世界の現実を、さらに突きつけられていく。
それは、うれしくも、怖ろしく。
目が離せない。



人類と巨人との戦いの物語は、
戦争がもたらす狂気や悲惨さを伝えるものに思えれば、戦争の恐怖を煽り、
戦意高揚を促していくプロパガンダにも捉えられるものでもあり。
ご都合主義的な魔法や超能力は、ほとんどなく。
息が詰まるような展開と描写には、圧迫感すらあった。
“誰かの受け売り”というのでもないけれども…。
反戦映画と、プロパガンダ映画は、類似性があると言うのは、
結構、色んな人が言っていること。
フィクションの世界から、戦争と平和、それに反戦を考えさせられるとき、
ちょっと複雑な気分にもなってくる。

そんなテレビアニメ「進撃の巨人」も、
いよいよ最終シーズンの放送が近付いている。
コミックシリーズは終了しているらしいのだけど、
どんな結末となるのかは、まずはテレビアニメで確認したいところです。



蛇足(前置き):「攻〇機動隊」のシリーズ作品は、どれも好きですけど…。
数か月前、ネット上の、ちょっとした記事において。
〇井守のアニメ映画作品で登場したテロリストのイデオロギーを、
「中二病じみている」・・・と、バッサリ切り捨てたものがあり。

ちょっと驚かされてしまったことがある。
押〇守に感化された中途半端なクリエイターもどきは多いけど。
日本の作家は、戦争を”観念”でしか捉えてなく。
戦争を体験した作家としての言葉がなく。
現実の戦争を知らない人間が、戦争やテロを観念的なものとして、
フィクションに投影し、安易で短絡的な結論に至るのは、滑稽かも知れない。
それをバッサリと切り捨て、“次へ”と突き進めるものが登場したことは、
どこかウレしいところです。
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ソウルフード・インディア:お気に入りのインドカレー店


12月も終わりとなる、20日頃。
チキンとケーキーを買い漁り、シャンパンを開ける・・・などの行事が、
ふざけたギャグとしか思えない性格ではあるもの。
企業戦士(こんな時代錯誤な言葉こそギャグでしかないけど)の一員としては、
年末の大商戦となる時期でもあり。
バカバカしいとも言っていられないところである。
そこで、残り1ヶ月となった年末に備えて、
チキンだけでも食べに行くことにしました。


都営三田線「水道橋駅」、
もしくは、JR東日本「水道橋駅(東口側)」を降りると、
目の前には、白山通りがあり。
区役所へと足を向ければ、左手には、東京ドームが見える。
大型の商業施設が多いが、それほど騒がしい街でもなく。
食品や生活用品を扱うスーパーマーケットのような販売店は少ない。
生活空間としては、必ずしも恵まれている訳ではないもの。
それなりに飲食店もあり。
“昨年初め”からのコロナショックで影響を受けるまでは、
ひとり身の生活において、不便を感じることもなかった。
そんな街の通りから、1つ路地へと入ると、
馴染みにしているインドカレーの店「ソウルフード・インディア」がある。



インドと言えば、古くから中央アジアへの出入口でもあり、
異文化との交流や交易が行われ、多種多様な人種と言語が存在する。
お釈迦様(ブッダ)の生誕の地にして、
数字の“0(ゼロ)”を発明した国でもある。
現在のインドは、総人口が13億人以上で、
国土は、日本のおよそ9倍もある巨大国家。
憲法によってカーストによる差別が禁止されたとは言え、
まだ身分制度も残り、土地ごとに宗教的背景も異なる。
これが食文化にも影響していることから、
インドでは、ボンベイ料理、南インド料理など、
土地の名を冠した料理名が用いられていると聞くけど。
この店は、それほど“かしこまった”ものでもなく。
お気に入りのカレーを選んで、ナンやライスで味わえる。
タンドリーで焼いた”ナン”は、そのまま味わっても本当に美味く。
少し余裕のあるときなら、両方を味わうのも美味しいところ。
ちなみに、インド料理のイメージとなっている「ナン」の発祥地は、
ペルシャ(現在のイラン)とも言われている。
まあナンで、インドカレーを味わうのに、余計な知識は、イランのよ。
…って、以前の記事のネタを使い回しています!?⇒

食後には、ラッシーやチャイを味わうのも悪くない。
ランチタイムなら、セットメニューを頼めば、ドリンクを選ぶことができる。



“ラッシー”は、ヨーグルトの飲料。
口当たりのいい酸味があり、スパイシーなインドカレーとの相性が良い。
ヨーグルトと言えば、日本人には、ブルガリアなど欧州圏のイメージがあり。
ちょっと不思議な気分にもなるけど…。
ヨーグルトとはトルコ語。
昔のトルコ民族は、モンゴル高原に住んでいた。
モンゴルの遊牧民と言えば、もちろんモンゴル系が思い浮かぶけど
かつては、トルコ系遊牧民も住んでおり。
彼ら遊牧民の戦闘力に目をつけたイスラム勢力が傭兵として、
引き入れていく。
インドの前身“ムガル帝国”も、この流れにあるイスラム勢力の1つ。
遊牧民の食べ物だったヨーグルトも、一緒に支配域へ広まっている。



“チャイ”は、インドでは、街角のスタンドでも飲める国民的な飲物。
日本のインドレストランなどでは、
紅茶に、たっぷりミルクと砂糖を入れたものが出されるけど。
以前、テレビのドキュメンタリー番組で紹介されたものでは…。
山羊やヤクの乳を温めたのち、紅茶の茶葉をとき、
それを漉してから、たっぷりと砂糖を加えたものとも聞いている。



(チキンが目的と言っても、スパイシーなタンドリーチキン!)

馴染みにしている店を、
ひいき目で記事にした“提灯記事”だって!?

「ふっふっふっ・・・」。
まあ、その通りなんだけど、ね(いいじゃん!)。



以下(↓)は関連する過去の記事となります。
「塩を求めて…。」
「70年よりも前の話。:(前編)」
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炭素野郎たちの愚能指数?


1分、1時間、1日・・・、1年や2年といった単位でなく。
10年、20年といった期間で形成されている人間関係は、
何も“含む”ところがないからこそ、言葉に詰まったままとなり。
そのまま、出口の見つけられないものも少なくない。
・・・などと、重々しい始まりとなったけど、

古い友人たちに「ちょっと時間を割いて、街に出られないか?」と、
連絡を入れたいと思ったもの。
このコロナ過では、どうにも気分が乗らない(当たり前!)。
なんとか連絡先を確保できたとは言え、
(“ほ・ん・と・う”にツマらない事情で)連絡のとれなかった友人への、
リカバリーも考え、妙に煮詰まっており。
知能指数は下がり、愚能指数(※)が上がっているのを、
自分でも認識できる始末である。
そんな状況だからなのか?
この“はんぐおーば”へとアップするハズだった文章を、
そっくり消失する失態までしていた。


※愚能指数:「こんなヒドい言葉はありません」と記すつもりでしたが、
検索でチェックすると、ネット上の一部で用いられている造語!


自分の考えを“文章”とすることによって、頭の中が整理されてしまうのか?
1度、文章に記したことを、もう1度、記すことが、
何故か?出来ないときがある。
そこで、ゴチャゴチャと、PC内の文章データーを整理しているだけとなり。
なんと、11月中、なにもアップすることもなく。
数週間が過ぎていたことに、気が付くこととなった。
実のところ、アップする予定だった文章も、“出だし”部分しか書いてなく。
他の文章や画像などの編集、整理もあわせて行っていたときでもあり、
区切りもついていない文章を保存しないまま、
(深夜だったこともあり、)一旦、睡眠をとってから、
片づけようと考えていたものだった。
そして、朝方…。
何故か、スリープ状態にしていたハズのPCが、再起動後の状態となっており。
何を書こうとしていたのかも思い出せないまま、となってしまった。



それにしても…。
「コロナの収束が宣言された訳でもないのに、街にあふれる人たちが多すぎる」
そう思ってしまうのは、ヒネた大人は愚能指数が高めだからかな?
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