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名言にして、迷言?


80年代頃に生まれた“ヲタク(オタク)”という言葉の影響もあり。
サブカルチャーや、それに傾倒する人種が、注目されてから、
40年近くとなる。

TVドラマや映画などで描写される“ヲタク”のイメージは・・・、
メガネ、不健康(デブ、もしくはガリガリ)、長髪、不潔、だらしない身なり、
そして、情報機関や軍事レベルのコンピューターを、
何故か、ハッキングできる?・・・などと相変わらずだけど。
一般にヲタクやマニアと呼ばれる人たちは、
サブカルチャーに傾倒した社会不適者・・・となる。
この“ヲタク”という言葉には、どこか、物事の本質を捉えてなく。
そんな言葉が、市民権を持っていくことへの、
説明のできないイラ立ちが、ずっと、あった気がする。

数週間前、世界中の映像作品に影響を与えた、
映画作品を「中二病じみている」と、
ネット上で、あっさり言い切ってしまった方がいて、
ちょっと驚かされたことがあった。

比較的、ヲタクな人種に属する方だと自覚はしているけど。
アニメやゲームに詳しいかと言われると、実のところ。
それほどでもなく。
旧世代(ロートル)のヲタクもどきとしては、
新世代(ニュージェネレーションズ)のヲタクの台頭に怯える日々である(※)
※ここ笑うところ、ね(?)
それにしても…。
この“中二病”という言葉、
「自分の物語に浸ったまま、その主人公を演じている病気(?)」は、
ヲタクという言葉より、イヤな響きこそあるもの、
本質を捉えている気がする。
近年、話題のテレビドラマや映画作品を、あらためて思い返してみると、
コミックやコンピュータゲーム、アニメの後追い作品ともいえない、
粗悪な模倣作品ばかり。
それらの作品は「ヲタクじみている」と呼ぶより、
「中二病じみている」というのが、やはりピッタリとくる。



まあ、サブカルが市民権を得て図々しくなったというより。
マンガやアニメ、コンピュータゲームが、
すでに“サブ”カルチャーなどでなく、“メイン”のカルチャーとなり。
これまでメインカルチャーとして扱われてきた媒体が弱体化して、
衰退しているだけと言えば、それまでなのかな?



追記:2021年末
自分が感じたものを、言葉で当てはめていく。
声にして、伝えることもあれば、文章として残していくこともある。
今も、学生時代も、いつもの職場でも、当たり前のようにしていること。
物事に、ちゃんとした言葉を当てはめていくには、
ある程度の教養や経験が必要となるのだろうか?
自身が保有している言葉では、当てはまる“もの”もない事象であれば、
いい加減な言葉が、物事と置き換えられることにもなり。
“何か”が抜け落ちて、伝えきれないことにもなる。
それに、そもそも言葉で伝えられない種類のことだってある。

正直、どうでもいいような“こと”なら、そんなのは気にもならない。
世の中には、どうでもいいような相手や事柄は多く。
いつもの生活というのは、そんな“どうでもいいようなこと”ばかり。
だからこそ、本質を捉えた言葉がもたらすものは、
足りなかったものを満たしてくれるところがある。
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中二病もどきの二千年


古代ヘブライ語で記された”少女”という言葉が、
“処女”と誤訳されたことから、
聖母は、処女のまま妊娠したと伝えられていくこととなった・・・というのは、
映画「スナッチ」での冒頭シーンだけど。
現実的には、処女のまま、受胎することなどなく。
昨今、謂われる中二病、
「自分の物語に浸ったまま、その主人公を演じている病気(?)」じみており。
チープなファンタージと同レベルの妄言にしか思えない。

・・・と言えば、キリスト教の福音派(原理主義者)らによって、
家に火をつけられそうかな?



以前に記したけど。
ツリーのイルミネーションは、
宗教改革で知られるマルティン・ルターが発想したと聞く(諸説あり)。

学校の教科書でも知られる宗教改革によって、
キリスト教は、カトリックとプロテスタントとに分かれることとなり。
(正確には、その前に、カトリックと正教会とに分かれている。⇒)
キリスト教のプロテスタントから派生したものには、
福音派と呼ばれるものを、いくつか生み出していく。
福音派とは、キリスト教の原理主義とも言われていたこともあり、
聖書への原点回帰を主張する、宗教右派になる。
キリスト教と世界史とのことを、ちゃんと勉強してこなかったこともあり。
「キリスト教、原理主義者(福音派)は、
宗教改革を行なったルターのことを、どのように捉えているのだろうか?」
・・・と、考えたことがあり。
ずっと、気になっていたところ。
あるテレビ番組を見ることがあった(その受け売りとなってしまうけど・・・)。
キリスト教、福音派と呼ばれるものは、
ルター派からは、あまり生まれることはなく。
カルヴァン派から、多くのものが生まれていったとのこと。
・・・以上(?)。

小中学校の授業で習うような、数百年も前のことが、
現在も、影響しているのだから、困ったところです。

<キリスト教福音派に関連する過去の記事⇒>
「ジーザスキャンプ(前編)までの感想」




追記:
キリスト教が支配する中世という時代は、哲学は神学に準ずるものだった。
彼らの感覚は、現代人と異なるのかも知れない。

“神のもとでは、すべての人間は等しい存在である”と、
キリスト教の聖書にはある。
そんなキリスト教文化が根付いている欧米の社会から、
奴隷制度が廃止されるには、数百年も必要とされた。
奴隷は、所有物でなく、人間だと抗議することは、
奴隷の劣等さが、主張されることで反撃されたとも聞く。

「“彼らは人間ではない“だから、教義に反していない」という詭弁が、
まかり通っていたということであり。
人の痛みが分からない相手には、道徳や倫理などが、
どれほどの意味をもつのだろうか?
そう考えてしまうことは、今でもある。
そして、差別は、現在においても存在するのだから、
人間って、ほ・ん・と・うに、業の深い生き物なの、ね。
(困ったものです。)
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聖書と、教科書、辞書に記されていること


遠い昔から、現在にまで伝えられてきた宗教や文化は、
最初から、教義や伝承のスタイルが完成されてもなく。
多くの“もの”が取り込まれてきている。

例えば…、
キリスト教文化の影響を無視できないクリスマスだけど…。
イエス・キリストの生誕の日でもなく。
本当は、人々の記憶から忘れ去られていった宗教などから、
その教義や伝承を取り込んできたものの1つだとも言われている。

キリスト教と言えば、カトリックとプロテスタントの2派だけにも、
思えてしまうときもあるけど。
ギリシャ正教やロシア正教(この2つの正教は、同じ派に属する)もあり。
学生時代、これらのゴチャゴチャとした経緯(いきさつ)は、
ちゃんと理解できていなかった。
まあ・・・、
世界的な宗教ともなれば、
その歴史は、か~な~り~、面倒臭い(本当)。

まず、4世紀末、ローマ帝国は、東西に分かれ、
その後、西ローマ帝国は滅亡し、
東ローマ帝国は、港町の名前から、ビザンツ帝国と呼ばれることとなる。
このビザンツ帝国の皇帝が・・・。
8世紀、「キリストは神であり、」
「神の姿を人間のように表現するのは許されない」と、
“聖像”を崇めることを禁止する(聖像崇拝禁止令)。

この聖像崇拝禁止令に対して、
西ヨーロッパで勢力を広げていたローマ教会は、反発する。
ビザンツ帝国の皇帝の話は、もっともに思えるけど、
西側には文字の読めない人が多く。
現実に即していなかった。
これが発端(引き金)となり。
11世紀には、西のローマカトリック教会と、
東のギリシャ正教会とで分裂してしまう。



頭の悪い子供だったこともあり・・・。
西ローマ帝国が滅んで、東ローマ(ビザンツ帝国)が、
西のローマ教会と対立したなど聞かされれば、
ちょっと混乱したようにも記憶している。

しかも、今度は、ビザンツ帝国(東のギリシャ正教会)が、
オスマン帝国によって滅ぼされてしまったのだけど。
15世紀末、ビザンツ帝国最後の皇帝の姪と結婚したことから、
ビザンツ帝国の後継を自称する君主、モスクワ大公国のイヴァン3世が現れる。

イヴァン3世は、自ら、皇帝を意味するツァーリを名乗り。
代々の君主も、この称号を名乗るようになる。
このモスクワ大公国は、17世紀から18世紀にかけて領土を拡げ、
国の名を、ロシア帝国と改める。




ローマの国教だったキリスト教が、正教とカトリックへと分裂し、
国がなくなれば、今度は、皇帝(ツァーリ)を名乗るものによって、
別の国に引き継がれ、極東周辺にまで、領土をもった巨大な国家になっていく。
そんな国が、近代では、ロシア革命によって、
社会主義の国家になったのだから、世界中も動揺したかと思われる。
世界が、アメリカ合衆国とソヴィエト連邦という2つの超大国によって、
西側諸国と、東側諸国に分かれていた東西冷戦の時代を知る身ではあるもの。
キリスト教の歴史と権威が、
ロシアの建国と、深く関わっていることを理解してなく。
歴史的な背景が、国家間や人々に影響してきたものについて、
考えさせられてしまう。

追記:

今から、50年前の、1971年9月に、カップヌードルが発売となり。
その30年後の、2001年10月、AppleのiPodが発売されている。
・・・では、今から、30年前の1991年12月26日は?
答えは、ソヴィエト連邦の解体。
そして、今年は、ロシアの文豪ドストエフスキーの生誕から、
200年目となる。


歴史や社会の本を読んでいるとき、
実体こそないもの、神の存在を感じるときがある。
「“神”の存在を感じる!!」などと言えば、
神秘的(カルトやスピリチュアル的)な印象を受けるかも知れないけど。

ここで言いたいのは、人間の存在を超えたものを感じるという意味であり。
その“人間以上の存在”と意思疎通ができるかは、別のこと。
それに、そのような“存在”に意思や自我があるかも分からない。
そう考えてしまえば、人々の苦しみや痛みから救って(助けて)くれ!・・・と、
神様に、お願いするのは、見当違いなのだろうか?
ちなみに、“祈る”ことと、“願う”ことは、別のこと。
これは、聖書でなく、辞書に記されていることだけど、ね・・・。
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今こそ、アリストテレスと天動説・・・、それに中二病を疑うとき!?


“頭の良さ”を考えるときに出てくる言葉として、
“知能指数”と“学歴”があるかと思う。
「1+1=2」というレベルの足し算でも、
驚異的な知能指数により、正確に100回ほど繰り返せるのなら、
「9×9」のかけ算を用いなくても
小学生4年生レベルの算数は回答を導き出すことも可能だと言える。

それでも、引き算や、かけ算、割り算の知識や技能があれば、
そんな驚異的な知能指数を保有していなくても、
正確性の高い回答を、より早い時間で導き出せることとなる。
天才こそ、先人たちの知恵と技能から学ぶべきことが、
いくらでもあると言うことだ。
しかし…。
人類の歴史には、逆のパターンもあり。
先人たちの認識が誤っていることを突き止めたにもかかわらず、
“力ずく”で撤回させられることが、何度も起きている。

歴史や科学の教科書に記されているものとしても有名なのは、
「地動説」と「天動説」だろう。
現在では、ファンタージやオカルトでしかない“天動説”や“物質4元素説”も、
その昔は、権威ある博士や学者たちが信じていた学識だった。
ガリレオが、天体の運行から、地動説を提唱したとき
その事実が、聖書の教えに反するからと、
ローマの異端審問所において、撤回させられた話が印象的なこともあり。
よく考えさせられることの1つでもある。
(関連する過去の記事「地動説と天動説:“信じる”ことと知識は違う。」)
社会的な権威者たちが、
自分たちにとって都合のいい物語を捨てることができなかったため、
客観的な事実を黙らせた。
現在なら、ゴシップ雑誌やワイドショーが喜びそうな話…とも思っていた。
しかし、テレビ局や新聞社、雑誌社も、営利企業であり。
自分たちに都合の悪い話を、わざわざ記事にすることもなく。
結局のところ、イエロージャーナリズムと変わらない。
(関連する過去の記事「匿名するは、訳にあり:2021年」)
教養や学位がありながら、浅い考え方しかせず、
愚かな認識をする人たちばかりを見てきてしまうと、
社会の残酷さについても考えさせられてしまう。
都合のいい物語の世界に生きているのは、みんな同じ?



今こそ、地動説を疑うときだ!…などと言い出せば、
新しいカルト団体にハマってしまったかにも思われそうだけど。

現代においても、もし天動説が信じられているとしたら、
天動説を否定するような、地動説を唱えるような行為したとき、
世間は、どのような反応をするのか?
これを、バカバカしい例え話…とも言えないような体験をしたこともあり。
科学的な証拠が、いくつも出揃っている時代だからこそ考えたい。
私たちの世界(地球)は、本当に太陽の周りを回っている惑星なのだろうか?
・・・大気圏を越え、宇宙空間での観測が可能になる前から、
世の中には、地動説へとたどり着いた人物もおり。
やっぱり、世の中には、ちゃんと知らなければいけないことが、
まだまだ沢山ありそうです。


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転移行動と中二病、されど我は問う?


動物学の話だったかな?
「転移行動」というものを聞いたことがある。

鳥が、自分のナワバリを、別の鳥に力ずくで奪われたりすると、
地面などへの攻撃を行なうことがあるらしい。
ハッキリ言えば、単なる八つ当たり。
傷ついた自分の痛みを、別のものに与える(ぶつける)ことで、
精神的に安定しようとする。
もちろん、これは、鳥に限ったことではなく。
他の動物にも言えること。
例えば、人間は、受験勉強や資格試験で覚えないといけない場合がある。
そこで学習し、優秀な講師からも説明を受けてみる。
しかし、どうにも理解できない
自分自身に理解する能力がないとは、
自尊心(プライド)が傷つくので、思いたくはない。
そこで、人間が選択する心理には、
「こんな事とは、別に、スゴイ事ができる」、
「こんな勉強は役に立たない!」など、逃げ道を探す。
だけど、生活上、必要な技能であり、逃げ道もない状況だと。
現実的な対象が必要になる。
「私が理解できないのは、バカだからじゃない!教え方が悪いからだ!」
…と、他人のせいにする。





自分には理解できない事象や現象を前にしたとき、
「自分には理解力がない(自分はバカだ!)」と思いたくない人間は、
「事実を無視したい」「自分たちにとって事実を歪曲したい」という、
感情的な転移行動を行う。
もちろん、こんなのは身勝手な思い違い。

その上、オカルトじみた発想にでも取りつかれてしまえば、
「あなた方は、私の言葉を理解できない愚か者どもとは違うのです!」と、
オカしな宗教団体へとハマっていく…と言えば、偏見が過ぎるかな?

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