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夏も終わり。されど暑く、悩ましい。


ちょっとした買い物で、コンビニに寄ったところ。
今年も、キリンビールの「秋味」が出ていた。

緊急事態宣言に限らず。
コロナ過の日々は、色々な社会的な制限が増え。
日々の生活から、変化を感じとることも難しく。
今週で、8月が終わることに気付かされた。

東京都内では、若者(16~39才)を対象としたワクチン接種も始まり。
炎天下の中、ワクチン接種会場までの列となったことが、
ニュースでも報じられている。
9月1日には、新学期が始まる学生たちには、
夏休み中に、ワクチンの接種を済ませたいと考えていた方も、
多かったのかも知れない。
エラい人を“悪者呼ばわり”したところで、
こんな状況が改善されることもなく。
どうにも悩ましい日々が続いている。



蛇足:(…というより、話を戻してかな?)

今年、キリンビールからは、
「スプリングバレー豊潤<496>」やホームタップなども出されており。
(関連する過去の記事⇒)
ビールメーカーとしての実力を見せられたところですけど。
ライバル企業(サントリー)からも、秋限定の商品が出されており。
なかなか見逃せないところ。
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鈍痛と免疫機能:2021年8月


個人的なことではありますが、
とりあえず…、2回目のワクチン接種も終わりました。
接種した日は、特別に意識するような感覚や反応はなかったもの。
翌日、注射を打たれた腕ではなく、反対側の腕が痛み出し、
頭には“ぼうっ”とするような感覚がありました。
風邪のような流行り病に感染したときの感覚より、
外傷を負ったときと似たような感じがあり。
そのまま、半日ほど過ごしていたもの。
深夜になっても、気分がすっきりすることもなく。
仕方なく、解熱剤を用いて、寝ることにしました。
(頭が、すっきりしないのに眠気を感じないため)



ネット上を見ると、コロナへの感染対策を怠っていなかったもの、
新型コロナウイルス(COVID―19)に感染された方や、
親族が感染したことで、その対応に追われている方もおり。
単純に自粛だけを呼びかける対応(ちょっと偏見が入っているかな?)には、
ちょっと考えさせられてしまう。
疫病の流行は、社会活動や人口集中を無視できるものではなく。
人口集中と言えば、都市部だけのことにも思える。
しかし、小規模なものを考えるのなら、どこにでもあること。
それに、一般的な社会活動や生活は、
“誰かと接しなければ成り立たない”ところがある。
そう考えれば、ワクチンを打っても、
油断できないのだと分かりそうにも思えるけど。
都合の悪いことは考えたくもないのも、人の常!世の常!!
・・・というところかな?

人には免疫機能があるのに、何故、病気になるのだろうか?
ワクチン接種が終了したからと言って、安心するには早く。
依然、感染対策は必要だと思われる。
それでも、一歩、一歩とコロナへの対策が、
進んでいるのを感じるところです。



蛇足:
そんなことから、2日後、やっと普段の感覚になったもの。
冷蔵庫は、空っぽ!
またカップ麵だよ!ぶうぶうぶう!!
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敵を知らず、己も分からず、ただ敗北を知る。


著名人や有名人の言葉だったのかな?
「平和とは、戦争と戦争の間の準備期間である」と聞いたことがある。
歴史は、戦乱の記録と記憶から、無縁でいられないところもあるけど。
誰が言ったのだろうか?
Googleで調べてみたところ。
アンブローズ・ビアスの「悪魔の辞典」からの言葉らしい。
創作小説などに出てくる架空の人物の言葉とも思っていたので、
しばらく、何も思いつかないまま、PCの画面を見つめていた。
平和が、戦争の“おこぼれ”のようにも聞こえ、やはり好きになれない。
戦争について、強く意識させられる時期でもあり。
ちょっと思い出したことを記しておくことにした。



太平洋戦争の開戦前、旧日本軍(海軍)の兵器開発部において、
電波を用いて、物体を探知できる装置、レーダーが提案されたとき。
「闇夜に提灯を点けるようなものだ!」
(敵に居所を伝えるようなものだ!)」と、一蹴されてしまったと聞く。

ざっくりとした説明になるけど、
レーダーは、電波を照射(送信)して、
その電波の反射状況から、遠方の状態を探知する装置であり。
現在では、気象庁などでもレーダーが用いられ、
雨雲をモニターすることで、正確性のある天気予報を可能としている。
戦場でなら、夜間など視界のきかない状態においても、
敵の艦船や航空機を、遠方から発見できるものになる。
反面、相手側にもレーダーがあれば、
こちらの電波がモニターされることにもなり。
旧日本軍のエラい人たちの認識は、それほど間違ってなかったとも言えるが…。
“敵を探知する装置が、兵器になる”という発想に至らなかったのが、
本当のところだった。
一方、同じ頃の欧米諸国では、
レーダーに用いる指向性のあるアンテナの開発で、頭を悩ませており。
そんなとき、日本人の発明した「八木アンテナ」を知り。
それが用いられてしまったという話を聞いたことがある。
これらの話は、多少、誇張されているもの。
日本(母国)で評価されることもなかった技術を世界が認め、
それが(敵側に)多大な戦果を生み出したのだから、皮肉としか思えない。

当時の人たちは、戦争について、
それなりに真剣に考えていたのであろうとは思う。
ただ発想が脆弱だった。
戦争の主力兵器は、艦船から、航空戦力へと移行していたが、
それに、旧日本軍のエラい人たちは追いつけなかったのだとは、
よく言われている。
しかし、他にも、多くの問題があったのが感じられる話でもある。




補足:
テレビ用のアンテナなどでも用いられている「八木アンテナ」は、
細長い金属の棒を軸にして、垂直に、大小の金属棒が並んだものとなる。
電波の送受信において必要となるアンテナは、
周波数や出力などによって、形状や大きさも変わってくるけど。
テレビ番組の視聴を目的としたアンテナの場合、
形状や大きさも、ある程度、同じようなものとなる。
八木アンテナの形状は、どこか魚の骨を思わせることもあり。
子どもの頃、家屋や建物の屋上にあるテレビのアンテナを、
不思議な感覚で眺めていたように覚えています。



追記:
アニメ「機動戦士ガンダム」では、レーダーを阻害するミノフスキー粒子が、
発見されたという世界観から物語が構成されている。
宇宙空間でのロボット兵器による白兵戦など、
レーダーの発達した時代においては、あまり効果的な戦術でもなく。
どんなに強力な兵装を施された部隊であっても、
強力な火器やミサイルで迎撃できてしまう。
そこで、アニメの制作現場が、
ひねり出した設定がミノフスキー粒子だったとのこと。
太平洋戦争以降の日本は被爆国でもあり、
その後の世界的な核軍備強化ばかりに意識を奪われがちだけど。
レーダーの兵器転用は、戦争を、それまでのものから大きく変えている。
もちろんレーダーは、軍事以外においても重要なものであり。
航空機などが安全な離発着できるのも、レーダー技術の存在が大きい。
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こんな夜は番組から刺激臭がします!:気分は不届き者!?


数日前、東京オリンピックの開会式の楽曲担当であった小山田圭吾と間違われ、
ミュージシャンの前山田健一(こと、ヒャダイン)が、
誹謗中傷の被害にあったというニュースを聞いた。

“馬”を“鹿”と見間違えるようなヤツは、中国史の古事だけかと思っていたけど。
何かと気分の悪くなる話である。



さて、と…。
深夜帯において不定期で放送されている、
フ〇テレビ系の番組「久保みねヒャダこじらせナイト」が、
ここ数年の楽しみとなっている。
ちょっとクセのある芸能人(著名人)らによるトークバラエティ番組であり。
気分が煮詰まっているとき、ちょっと転換させてくれるものになっていた。
この番組のレギュラー出演者の1人が、
上述したミュージシャンのヒャダインこと、前山田健一になる。
今週末(8月13日深夜)に放送される番組において、
この件が絡んだトーク内容が展開されるのか不明だけど、
ちょっと意識してしまうところ。
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子供のリクツ、社会のウソ、コンナノリフジン?


学校教育における道徳や倫理では、差別を戒めるよう教えられ、
「話せば分かる」などと、簡単に言う。
もしくは…、
「これまでの誤解や、わだかまりは忘れ、まず心を開いてみようじゃないか」
・・・と、言うものもある。

どちらも、もっともらしく聞こえる言葉だと思う。
しかし、所詮は、他人事でしかなく。
こんな言葉は、自分とは関わりないことだから言えるもので、
タワゴトでなければ、悪意ある“大ウソ”にも聞こえる。
当たり前の話だけど、どちらも現実に即してなく。
「話せば分かる」などという言葉を真に受けて、
無防備(バカ)な行動(マネ)をすれば、“袋叩き”にされてしまう。
このような哀れな(愚かな)犠牲者に目を向けようとしないのは、
もちろん学校教育だけではなく。
暴力や差別を正当化するような間違った認識は、組織社会にも存在します。
…と、あるレポートの、出だしに、こんな文章を用いたところ。
かなり揉め、“ここを削除しろ”となったことがあった。



(こちらは過去の記事からの画像⇒)

世間知らずの子供を相手にするのとも異なり。
まるで理解力のない大人に対して、
何が正しいことなのかを説明していくのは、かなり難しいときがある。
ほとんど恫喝や脅迫としか思えないような行為が、
正当化できると思い込んでいるものを、相手にしたときもあり。
その悪質さには、思い出しても気分が悪くなる。

学校教育において、社会への不信にもつながる“いじめ”は、
根絶すべき本当の敵のハズだけど。
組織社会の縮図とも言える学校では、おかしな同調圧力が働くときがあり。
問題解決を拒絶する雰囲気まで感じるときがある。

「何も聞く気もなければ、伝えることもない」
他人との話し合いなど拒絶しているのだから、
「(話すまでもなく、理解する気はないのだから…)話せば分かる」は、
ある意味、ウソではないのかも知れない。



それにしても…。
大人や社会が、小うるさいことを言ってきたとしても、
詭弁を用いれば、黙らせることは出来るのだという成功体験が、
何をもたらしてしまうのか?
ちょっと考えれば、分かりそうなこと。
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