ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

雄心もなき

2017-08-21 21:21:57 | Weblog



 8月21日

 二日前、いつもの曇り空の朝から、青空が広がり始めて、またたく間に快晴の空になった。
 この二週間余りで、初めての、気持ちよい晴れた一日だった。
 と喜んだのもつかの間、昨日今日と、再び重たい曇り空に戻ってしまった。
 雨の日が続くわけではないのだが、青色が見えない空はどこかやりきれない思いになる。
 家の前の、緑に繁る牧草畑から、穂先が黄金色に色づいてきたデントコーン(飼料用トウモロコシ)畑へと続く、その上には、いつもなら日高山脈の山々が見えるのだが、もう何日も見ていない。(写真上)
 
 オホーツク海高気圧の張り出しの中、その南東部に位置する北海道の道東から、東日本の太平洋側に位置する仙台、東京などでは、同じようにぐずついた天気が続いているらしい。
 ただ気温が低く、涼しいのはありがたいが、もっともそれにも、日照不足による農作物への悪い影響もあるし。
 その天気のこともあってか、気質的に”お天気屋”な私にとってみれば、どうにもこうにも何をするにも気分が乗らずに(歳のせいかもしれないが)、さらにはもう1か月以上も山に行っていなくて(そのためか山の夢ばかり見ては)、ただ相変わらずに、ぐうたらな毎日を送っているだけのことなのだが。

 そこでふと、万葉集の中にある一つの歌を思い出した。

 ”天地(あまつち)に 少し至らぬ ますらをと 思いし我や 雄心(おごころ)もなき”

(『万葉集』第十二巻 2887 伊藤博校注 角川文庫)

 もちろんこの歌は、恋歌であり、娘に恋している自分の気持ちを、”自分は、天地の広がり程に、いやそれには少し足りないかもしれないが、それほどまでの気骨を持った男だと思っていたのに、あの娘のことを思うともう目はハートマークになってしまい、だらしない様(さま)になってしまう。あの勇猛果敢(ゆうもうかかん)な自分は、もうなくなってしまったのか。”と表現しているのだ。
 同じように、こんな私でも、若いころには、そういうふうに思いが募っていく、幾つかのひたむきな恋をしたことがある。
 そして、そんな恋のさなかにある時は、いつもの男友達の前では決して見せない、”ますらお”の雄心とは違う、もう一つのふぬけな私の姿があったはずだ。
 月に向かって”ワオーン、ワンワン”。
 そう意味で、この歌は、恋する男の気持ちを見事に言い当てているともいえるのだが。

 しかし、よれよれのじじいになりつつある今の私は、そうした恋の歌ではなく、壮年の自分と老年の今の自分との対比の歌として、ふと思い出してしまったのだ。若いころに、初めてこの歌を知った時に感じた思いのように。

 その昔、道もない日高の山の頂きを目指し、ただ一人、沢をさかのぼって行ったことが何度もあったのだが。
 それは、危険や不安な思いよりも、冒険心や期待の憧れのほうが勝っていたからでもあり、さらに、そのころはまだ若く、十分な体力に裏打ちされていた自信があったからでもあったのだが、こうして年を取ってきた今、まず基礎的な体力が落ちてくると、おのずから危険と不安な思いは増幅されていき、それが未知なるものへの冒険心や期待の思いを凌駕(りょうが)するようになり、もう出かける気さえなくなってしまって、こうして年寄りは、自ら年寄りになるべく追い込んでしまうのだろう。

 それだから、上にあげた万葉集の歌は、そうした年寄りの嘆きの歌として、理解できないこともなく、最近とみに引きこもりじじいになっている私には、自虐(じぎゃく)的な歌として、思い出されたのだ。 
 昔は、天地の境まで自分に登れない山はないとさえ思っていたのに、年寄りになりつつある不安に駆られると、もう若い時のような猛々(たけだけ)しい気持ちはなくなってしまい、万葉集の一つの歌さえも、自分の年に合わせて解釈してしまうようになったのだ。

 こういうふうに、他人の作品を、自分になりに勝手に解釈することもできるのだから、作家が生み出した作品そのものに、懇切丁寧(こんせつていねい)な説明が付けられていない限りは、すべての芸術作品には、受け手側それぞれが、その作品を見て読んでは、あるいは聞いては感じとることのできる解釈の幅があり、そうした自分の世界観を反映させる受容体があるがゆえに、共通理解項目としての芸術作品が存在するのだろう・・・。

 そういえば、数日前に、定期番組としては今年の春に終わったはずの、NHKの『ファミリー・ヒストリー』の特別編として、あのニューヨークで活躍した前衛芸術家であり、1980年に銃殺され亡くなったジョン・レノンの妻としても有名な、オノ・ヨーコの家族の歴史が取り上げられていた。
 そして、その出来上がった番組を、今年84歳になるオノ・ヨーコと41歳になる息子のショーン・レノンが、並んで座って見ているという番組構成になっていて、二人は、自分たちの知らないことまでよく調べていて面白いと、お互いに言葉をかけあいながら、番組を見ていた。

 ヨーコの父方の家系は、九州の柳川藩士であったが、明治維新の改革で今までの碌(ろく)を十分に得られなくなり、父の協力もあって、ヨーコの祖父は当時珍しかったアメリカへと留学して、優秀な成績を収めて帰国し、金融官僚から後に日本興業銀行総裁になる。
 そして、後のヨーコの父となるその息子は、父親の跡を継いで、同じように著名な銀行家の道を歩き、当時の安田財閥の孫娘であったヨーコの母と結婚することになるのだ。
 長身でハンサムな彼と、財閥のお嬢様であった彼女との組み合わせは、まさに絵にかいたような理想の結婚だったのだ。
 しかし、太平洋戦争の悪夢はその家族にも暗い影を投げかけ、父は駐留していたベトナムに抑留され、お嬢様育ちの母は、三人の子供を連れて不便な田舎に疎開しては、家族を守っていた。 
 戦後、家族は再会し、やがて子供たちも成長して、ヨーコはニューヨーク留学の後その地で前衛芸術家になり、長男は三菱商事に勤め、次女は世界銀行で働きそれぞれの道を歩いていくのだ。

 そしてヨーコは、ロンドンで自分が開いていた個展を訪れたジョン・レノンと知り合い、結婚することになるのだが、そのレノンが作った世界中の人が知っている名曲「Imagine(イマージン,1971年)」は、オノ・ヨーコの詩集に影響を受けたものだと彼自身も言っていたが、この番組の終わりのところで、ヨーコとショーンが言葉をかけあっている背後に、あの「イマージン」の曲が流れてきた時、私は思わず胸がいっぱいになり、涙ぐんでさえしまった。 
 1980年12月、若い私は長いヨーロッパ旅行を終えて、再び出発地のロンドンに戻ってきていた。
 寒い朝だった。
 肩をすくめて歩いていた私に、新聞スタンドからの声が聞こえてきて、貼り付けられた白い紙に大きく”JOHN LENNON SHOT DEAD"(ジョン・レノン射殺される)と書いてあった。
 それまでの4か月に及ぶヨーロッパ旅行の思い出が、その時に、一気に彼方へと消えて行ってしまうかのような衝撃だった。

 ビートルズの多くの名曲とともに、私たちが知っていた幾つかのこと、メンバー間の確執(かくしつ)、オノ・ヨーコの存在、平和活動などなど。 
 40歳という若さでジョンが亡くなって、あれから37年という歳月が流れ、オノ・ヨーコは84歳になり、息子のショーンは41歳になり、すべての出来事の中で、その歴史の中心を誰にするというわけではないけれども、何人もの人々の、同時進行のサイド・ストーリーがそれぞれに流れていたわけであり、いつの時代にも、いつの時にも、その時に生きた人々さえも、そのすべてを捉えきることはできないということであり、私たちは、いつも、ほんの一部のことしか知りえないのだということ・・・。

 初めの話に戻れば、和歌の解釈でもいろいろと考えられるように、人はいつも自分の経験と知識をもとにし、自分のなりの視線でしか、世の中を見られないということなのだろうか。 
 良かれ悪しかれ、今の世の、”百家争鳴(ひゃっかそうめい)”のかまびすしい声の中に、それぞれの真実があり、それぞれの誤りがあり、それぞれの生きる姿があり・・・その混迷こそが現実の姿なのだろう。

 ところでこうして、原稿を書いている間に、昼前から見る見るうちに空が晴れてきて、すっかり青空が広がり、二日前と同じような快晴の空になった。
 気温も二日前と同じように、すぐに20℃を超えて26℃くらいにまで上がった。 
 遅ればせながら、夏が戻って来たのだ。
 前回写真を載せていたように、またヘビが屋根に上がってきたが、日差しが強すぎて(トタン屋根のヘビになってしまうから)早々に日陰に引っ込んでしまった。

 チョウもいろいろと飛んでいた。 
 その中でも、玄関先の日陰の所には、同じように暑い日差しを避けてか、ヒカゲチョウの仲間が多く飛んできてはとまっていた。
 そして、その玄関の丸太の所には、小さなアカマダラがとまっていた。(写真下)
 このチョウは、北海道にだけしかいない種であり、春に孵化(ふか)して飛び回る春型と今いる夏型があって、全く同種なのかと思うほどに色合いが違っている。
 アカマダラとは、その春型に関して名づけられたものであり、夏型はこうして地味な黒地紋様になるが、それだけに翅(はね)の白斑紋様が鮮やかに見え、何より外べりの白いフリル紋様がエレガントだ。
 さらに同種の、少し大きいだけの全国にいるサカハチチョウとの、特に夏型の見分けが難しいのだが、それは白斑紋様の並びと後ろ翅の突起だというのだが・・・。

 夕方になるまで、快晴の空は続いていたが、西の空に薄い雲が広がってきて、見事な夕焼け空にはならなかった。
 それでも全く久しぶりに、うっすらとではあるが、日高山脈の稜線が連なって見えていた。
 山に登れなくとも、何とか山が見えてくれていれば、それだけでもありがたいのに・・・どれどれ、今日も山を観る時間になったなと立ち上がり、腰を丸めたまま、じじいはひとりよたよたと歩いて行くのでした。

 彼岸の世界があるという、西の空に向かって・・・。