ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

早春の山旅、大山 (2)

2013-03-19 10:42:56 | Weblog
 

 3月19日
 
 前回からの続きである。山陽新幹線、伯備線を乗り継いで、青空の下、大山(だいせん、1729m)の白い優美な姿を眺めながら、ふもとの大山寺まで行き、そこで一晩泊った。

 翌朝、日の出の時間に合わせて宿を出た。まだ薄暗く、-5度くらいだが、風もなくそれほど寒くはなかった。
 河原の橋の傍で、日の出を待つことにした。薄明るくなってきた山の端から、ずっと離れた上に、ひとり三日月だけが残っていた。
 しかし、この時期は、ここからでは朝日の当たる位置が見えなくて、わずかに北壁上の頂上稜線が薄赤くなっただけだった。
 おそらくは、冬至(とうじ)からまだ2か月余りしかたっていないから、北壁の方には十分に日が当たらず、今の時期に朝焼け夕焼けの山の姿を見るには、南側から南壁の姿を見るべきなのだろう。

 橋を渡り、登山者たちのクルマが並んでいる駐車場の前を通って、左に夏山登山道入り口の標識がある。踏み固められた雪の道だ。
 すぐに右手から上がってきた石畳の参道に出合う。
 そこで登山者が二人、座り込んで靴にアイゼンをつけていた。こんな下の所からとも思ったが、彼らの判断のほうが正しかった。
 というのも、昨日の登山者たちの踏み跡がいったん溶けては、凍りついて滑りやすくなっていたからだ。
 それでも、やせガマンをして、テラテラ光る踏み跡から外れた道の両側を歩いていたが、やはり歩きにくい。二合目の標識あたりで、休みもかねて私もアイゼンを取りつけた。

 少しずつ勾配が増してきたが、アイゼンの爪が効いて快調に登っていける。周りの雪の山腹斜面には、見事なブナの林が続いていた。しかし、先ほどから少し気にはなっていたのだが、風が出てきていたし、木々の間から見えている頂上付近にかっていた雲が、少しずつ広がり始めていたのだ。
 さらにしばらく登って、頭を上げると、何と雲は上空をぐるりと取り囲んでいて、下の大山寺の街並みやそれに続く北側の平野部が見えるだけになっていた。
 朝は、あんなに快晴の空で、天気予報も終日晴れだったのに・・・。さらにこの山腹の林の中にも風が一段と強く吹きつけていた。

 よくあることだ。天気予報ではお日様マークで、山登りには心配のない天気かと思うと、それは平野部の天気についてであって、わずかな寒気や気流の影響を受けやすい山では、雲が湧き上がりそのまま張りついて、曇り空になってしまうこともあるのだ。
 NHKの全国の天気予報では、お天気マークがつくのは、県庁所在地などの主要都市だけであって、内陸部ではわずか長野、宇都宮、盛岡そして北海道の旭川と帯広だけであり、翌日の時間ごとの予報に至ってはわずか長野の一か所だけ。

 つまりこの中国地方、四国、九州では、お天気マークのつく県庁所在地はすべて沿岸部にあり、厳密に言えば内陸部の天気は分からないことになる。それが顕著に表れるのは、冬型の気圧配置の時なのだ。
 日本海側の沿岸部は、雲が広がり雪も降るが時々青空ものぞき、それほどひどい積雪にはならない。しかし季節風がぶつかる山間部は、雪雲に覆われ続けて豪雪になることが多い。そして太平洋側に出れば、吹き下ろしの空っ風で、青空が広がっているというわけだ。
 それだから日本海側と太平洋側だけの予報では、内陸部の天気は分からないということになるのだ。

 さらに言えば、もっと簡略化された民放局の全国の天気予報では、内陸部どころか、北海道にいたっては、札幌一か所だけであり、それで四国九州を合わせた広さがある北海道の天気予報になるのだろうか。
 つまりあとは、地方局のさらに地域ごとの天気を見てほしいということなのだろうが、そこでも地域の主要市だけだから、離れた山間部の天気とは違うということがよくあるのだ。

 まあ民主主義多数決の世の中だから、都市に住んでいた方が情報は多いし、何かにつけ便利なのは言うまでもない。
 しかし、東京で数センチの雪が降ると、全国ニュースのトップになるし、土埃(つちぼこり)が舞い上がり空が覆われると、風塵(ふうじん)だ煙霧(えんむ)だとこれまたニュースになるのだ。
 都会に住んでいる人には、5mもの雪が積もる所で日々暮らしている人たちの気持ちなど分かるはずもないだろう。
 また広大な畑が広がる北海道では、毎年雪が消えた春になると、砂塵(さじん)が空一面を覆うけれども、それは馬糞風(ばふんかぜ)と呼ばれていて、いつもの季節のことだからと思っている北海道の人と、天変地異(てんぺんちい)的な出来事ではと思う都会の人では、大きな感覚のずれがある。

 それでいいのだ。そういう地域差の中で、それをわかって人々は暮しているわけだから。
 人は生まれながらにして不平等であり、不平等のまま一生を終わり、決して自由になどなれないし、地球上にはこれだけ多くの人々が生きているわけだから、そこに格差や混乱が起きるのは当然のことだ。
 ただ、そうしたことを認めたうえで、それぞれに自分なりにできる範囲以内での楽しみを見つけては、自分を律しながらも、しぶとく生きて行けばいいのだ。

 その点で、あのストイックという言葉の語源にもなった、ギリシア哲学におけるストア学派が主張しているように、”自分の欲望や感情を理性の力で抑えて、運命に従いながらも論理的に生きていくこと”が必要なのだろう。
 それは一方では、逆の立場の快楽主義と受け取られかねないエピクロス学派(’10.6.22の項参照)の教えである、”なるべく苦痛になるものを避けて、自分を律した簡素な生活を送ること”ともそう隔たってはいないのだ。
 つまり、最終的に両者が求めたのは、魂の平安であり、穏やかな暮らしだからである。

 などと、とりとめもないことを考えながら、上に見える先行者の後を追って登り続けた。
 こうして天気が悪くなったのも、すべては神のおぼしめしなのだ。というのも、さすがは噂に高い悪天候の続く日本海側の独立峰の山であり、初めて来てそうやすやすと最高の天気に恵まれるなんて、そんな虫のいい話があるはずもないのだ。いつかまたもう一度出直して来いということなのだろう。
 それにしても昨日の電車の窓から、あるいはふもとの大山寺から仰ぎ見た大山の姿は素晴らしかった。それだけでも十分価値があるし、さらに言えば、家でうだうだとしていた毎日から、こうして異なる一歩を踏み出せたことだけでも十分ではないかとも思った。

 とその時、上から雪道を早足で降りてくる人がいた。思わず呼び止めて山の状況を尋ねてみると、上は危険を感じるほどのひどい風で、7合目であきらめて戻るところだと答えてくれた。
 しばらくしてさらに一人、下りてくる人がいて彼にも声をかけてみた。雪で凍り着いた防寒雨具のフードをかぶったままの彼は、頂上まで行ったが、風が強くガスもかかっていて何も見えなかったと話してくれた。

 それで私は、これからの行動を決めることができた。すなわち、もうしばらく登ったところにある6合目避難小屋まで行って、そこでゆっくり待つことにしよう。時間は十分にあることだし、せっかく来たのだから、やはり間近に迫る冬の大山北壁の姿を見てみたいのだ。
 ただ、幾らかの望みもあった。空全体を覆う雲のその早い動きの中にも、ちらちらと青空が見えていたことだ。つまりそれは、雲の層が薄いことを意味していて、風が強いからこそ一気に雲が吹き払われる可能性もあると・・・。

 やがて、左に行者谷(ぎょうじゃだに)に下る道への分岐点があり足跡もついていた。
 そこからさらに登って、今までの樹林帯を抜けて、ノリウツギやツツジなどの灌木が雪面に頭を出すだけの、見通しの良い尾根に出た。
 風が強くガスがかかる中、人々が見え、雪に埋もれた小さな小屋の屋根が見えた。6合目の避難小屋だった。
 そこで休んでいた数人の人たちと、天気予報は良かったのにと話し合った。切れ切れの雲の間から、三鈷峰(さんこほう、1516m)らしい姿が見えていただけだった。入り口付近が除雪されていたので、その小屋に入って休むことにした。

 詰め込んでも数人が泊まれるぐらいしかない小さい避難小屋だが、頂上小屋とともに、緊急時のためにはありがたい存在だ。
 そこで、少しゆるんでいたアイゼンを締め直し、テルモスの温かい紅茶を飲んで、さてこの天気の中いつまでここにいようか、それとももう少し上まで登ってみるかと考えていたところ、小さな窓の外が明るくなり、誰かが声をあげていた。

 外に出ると、何と、空に大きく青空が広がり、雲が流れながらも北壁と稜線が見え隠れしていた。
 あーあ、ありがたや。心に念じていた”八大竜王、雨やめたまえ”(源実朝)の祈りが通じたのか。
 そして、見る間に青空がほとんどになっていた。そのうえに、風も幾分弱まっているように思えた。見上げる先に続く青空と白雪の稜線の姿に、私は小おどりしたいくらいだった。

 そこから始まる急な登りも苦にはならなかった。見事な景観に思わず笑みがこぼれ、何度もカメラのシャッターを押しては、上を目指した。(写真上)
 まだまだ続く急斜面には、トレースがジグザグについていて、苦しい登りを幾らかやわらげてくれる。
 ただ、時折吹きつける風には、耐風姿勢を取るためにもやはりピッケルが欲しい気もした。(出発前に、持っていくかどうか迷ったのだが、この時期の2000mほどの山ならばとストックだけにしたのだ。)
 まあ結果的に言えば、全面氷結しているわけではないから、ストックの石突きだけでも十分に役に立ったのだが、基本的にはまだピッケルが必要なな時期なのだ。

 そして8合目を過ぎると、急に道がゆるやかになり、上の方にかけてなだらかな広い斜面が広がっていた。
 なるほど、これがこの山の特徴的な形の一つであり、富士山型のコニーデ型に噴出した後、その上に、今は崩壊が進んでいるが、弥山から剣ヶ峰、天狗などの頂きがトロイデ状に噴出したのだ、という解説にも納得できるのだ。
 加えて言えば、この大山という山の姿は、上から見た平面的な形では、イチョウの葉の形に似ている。葉の部分が、コニーデ型のすそ野が広がる部分であり、軸の所が北壁南壁となって切れ落ちる稜線であり根元が東壁というわけだ。

 そのゆるやかに続くコニーデ上部の道には、少しだけ木道が姿を現していて、その傍らには天然記念物のダイセンキャラボク(イチイの高山型)がエビノシッポをつけて凍りついていた。
 やがて人々の姿が見え、雪に埋もれた小屋があり、その先が最後の高み、弥山(みせん)山頂だった。登山口から3時間ちょうどというのは、最近すっかり弱くなってきた私としては上出来の時間だった。

 そして、そこからの剣ヶ峰の姿、これこそが私の見たい冬の大山の姿だったのだ。
 しかしそこでは、まだ北壁側を含めた全部は見えない。その先に続く稜線の100mほど先の小さな高みが、1709m三角点のある本当の弥山の頂上なのだ。
 そこへと続くトレースをたどってその頂きに立ち、さらに少し降りたところから、ようやく両側がすっぱりと切れ落ちて、さえぎることなくそびえ立つ大山の本峰、剣ヶ峰(1729m)の姿を見ることができたのだ。(写真)

 


 右手には烏ヶ山(からすがせん、1448m)の崩壊山稜が続き、その上には蒜山(ひるぜん、1202m)三座があり、遠くに見える山々は那岐山(なぎのせん、1240m)から氷ノ山(ひょうのせん、1510m)方面になるのだろうが、詳しく地図で調べない限り、新参者の私には見分けがつかなかった。

 そして目の前の剣ヶ峰への稜線。この縦走路は崩壊が激しく通行禁止になっているけれども、むしろこの雪の時期の方が歩きやすいのではないのだろうか。昨日も、縦走して下りてきた人たちに会って話を聞いたのだが、一部雪庇(せっぴ)の張り出しで怖いところがあるといっていたが。
 ここからも、その彼らの昨日のトレース跡が見えていたし、このくらいの凍結していない稜線なら私にも行けないことはないのだが、いかんせん装備が十分ではない。
 初めからこの弥山までのつもりだったから、ピッケルはもとより、靴も冬季専用の完全防水ではないし、気休めのヘルメットはともかくザイルもない。ただ時間的に見ても、ここから剣ヶ峰までは十分に往復できそうだった。

 何という、欲深い思いだろう。あの6合目あたりの強風とガスの中では、引き返すことも考えていたのに、幸いにも一転して晴れてしまうと、その先のものが欲しくなってしまうのだ。
 いや、これ以上は望むまい。目の前に広がる、この見事な雪山の景観だけでもう十分なはずだ。
 ほほをなでるやさしい風と日の暖かさを浴びて、私は座り込んでいた。

 そして三角点ピークに戻り、そこにいた一人と話していると、何と右手の切れ落ちた北壁側の弥山尾根に人の姿が見えた。それは、ダブル・アックスを雪面に打ち込んでは登るクライマーの姿だった。
 つまり、この冬の大山は上級者の訓練用の山でもあり、また冬山初心者のための山でもあるのだ。

 さて再び、さらに広くなった弥山山頂に戻り、そこにいた人たちと言葉を交わしたが、みんなこの天気と山々の眺めに喜んでいた。
 なかでも地元だという、私と同じ年くらいのおじさんは、今年はもう6度目になるが、こんなに晴れたのは今日だけで、初めて来てこんな天気の日に登れたなんて、あなたは幸運な人だと言ってくれた。
 そんな時に、何も正直に、私は十分に天気を調べてきたのですと言うべきではないのだ。ここは、みんなからの祝福の言葉を素直に受け入れるべきなのだ。私は笑顔で、頭を下げた。

 なごやかな人々たちのいる雪山の頂上だった。青空のもと、皆もなかなか立ち去りがたい様子だったが、私は意を決して、また来るかどうかも分からない大山の弥山山頂を後にした。(1時間ほどいたことになるが、その後早く下に着いてしまい、その時になってもっといてもよかったのにと思った。)
 下りは下りで、太陽光線の当たり具合も違うから、雪面や雪庇の状態が面白く見えて、何度も立ち止まってはカメラを構えた。
 まだまだ登ってくる人も多く、風も収まって日差しが強くなり、汗を光らせている人もいた。おそらくこの日だけで、30人以上は登っているだろう。

 それは、この大山の見事な雪山の姿を見るためなのだろうが、そこには今年だけでもう6回目だと言う地元のおじさんがいたように、ほとんどの人はもう何回となく登っているに違いない。
 そんな人々の、この大山に寄せる思いが伝わってくるようだった。近くにいつでも登れる、名山と呼ばれる山があることの幸せ・・・。
 それぞれに十回以上は登っている山といえば、私にとっての九重連山や由布岳、北海道での日高山脈や大雪山などのように、自分にもなじみのふるさとの名山たちがあるのだ。

 下りは、6合目の小屋を通り過ぎ、5合目の所からは行きに見た行者谷へと下る小さな尾根をたどった。今日の足跡らしいものが一つ。
 それにしてもようやくここで、前後に誰もいない静かな山になった。私は何度も立ちどまっては、斜面の見事なブナの木々を見ていた。
 下の谷に下りると、右手北壁からの雪崩(なだれ)の危険が気にならないこともなかったが、全層雪崩が起きるほどに気温が上がっている訳でもなかった。
 右手に元谷避難小屋を見て、小さなの砂防ダムが続く元谷に出る。昨日行った金門のさらに上流部である。
 そこからの、北壁と弥山から剣ヶ峰、天狗ヶ峰と続く雪の稜線が、昼の光を浴びてテラテラと輝いていた。(写真下)

 まだ1時にもなっていなかった。続けて泊ることにしていた宿に戻るには早すぎた。この時間なら、バス電車新幹線と乗り継いで、今日中には家に戻れそうだった。 
 若い時ならそうしただろう。しかし、今では何とか楽をしようと思うだけの偏屈(へんくつ)なジジイにすぎない。残りの人生、急ぐよりは時間をかけて楽しみたいのだ。
 ねちねちと・・・ロープとムチを片手にローソクを持って・・・いや、これは違う、私の趣味ではありませんから。念のため。

 その後、昨日行った金門から、さらに再び大神山神社に参り、次に大山寺の街(750m)の裏手にある寂静山(じゃくじょうざん、868m)への雪道をたどり、その展望台からは雄大な大山北壁を眺めることができた。
 誰もいなくて、展望も素晴らしいのだが、何しろ裏手がスキー場になっていて、ゲレンデの音楽が流れ響いて、とても寂静という雰囲気にはほど遠かった。

 翌朝、二日もお世話になり、家族的なもてなしで料理もおいしかった民宿を後にして、朝一番のバスで米子(よなご)に出た。(初めて分かったのだが、大山寺に行くにはJR大山寺口からよりは、米子から行く方が便数も多く運賃も安く時間も早く着くのだ。)
 バスの後ろの窓からは、今日も晴れてはいるものの、すっかりかすんでしまった大山の姿が見えていた。

 さて米子からは、伯備線に乗って、一昨日見たあの大山南壁の姿をもう一度見たいと、行きと同じ左側の席で待ち構えていたが、やはりちらりと見えただけだった。しかし、何とその時、反対の右側の窓から大きく南壁が見えたのだ。根雨(ねう)駅のあたりだったが、気づくのが遅かった。残念。
 しかし、見る位置からその形が違うこの雪の大山を、特に南壁の姿をもう一度じっくりと眺めては、写真にも撮りたいものだ。そのためには、いつの日かクルマで来なければと思う。鍵掛(かぎかけ)峠、笛吹山、三平山などから・・・。

 ともかく、今回の大山への山旅は、ゆったりと組んだ日程と、米子付近の車窓からの富士山型の優美な姿、ふもとの大山寺からのアルペン的な北壁、そして何より登山の日の快晴の山頂からの眺めの素晴らしさ、さらに加えてあたたかい宿のもてなしを受けて、私の忘れがたい山の思い出の一つになったのだ。
 そして、この雪の大山には、間違いなく、日本の山の中でも第一級の山岳景観美があるということだ。
 もっともそれは、あなたの好きな山はと問われて、いつも「ついこの前に登ってきた山です」と答える人の思いにも似ているのだが。

 幸せな思いを求めることは、そのささやかな快楽を求めることは、上にあげたエピクロスが言うように、まさに日ごろから、質素で自分を律した生活をしているからこその、小さな幸せの喜びであり、それを糧(かて)に生きているということにもなるのだ。

 私が、ひとりだけのぐうたらな泥濘(でいねい)にまみれた毎日から、別な世界への一歩を踏み出せたのも、結局は自分の好きな山の呼ぶ声に従っただけのことだったのだが。
 つまりは、孫悟空(そんごくう)が自分は遥かなる天空を飛び回っていたと思っていたのに、実はお釈迦(しゃか)さまの手のひらの周りを回っていただけだったという例えと同じように、ただいつもの山に登ったようなことだったのかもしれないが・・・。

 (参考文献:山と高原地図 大山・蒜山高原 昭文社、ギリシア哲学者列伝(上・下)ラエルティオス著 加来彰俊訳 岩波文庫)

 

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