5月13日
ミャオがいなくなって、10日になる。そして皮肉にも、それから毎日、晴れの日が続いている。
あれほどミャオが待ち望んでいた日差しは、あの草むらにもさんさんと降り注いでいる。
さわやかな風が吹きわたってくる。揺れる若葉の向こうに澄んだ水色の空が広がり、ひとはけの薄い雲が流れていく。
ミャオがいなくなって、私は、夜中にミャオの鳴く声で起こされずにすむようになった。
夜の間、ベランダのドアを薄目に開けておかずにすむようになった。
ミャがもらしたしっこのしみ込んだ座布団やコタツ布団を洗わなくてもすむようになった。
ミャオが雨の中出て行って戻ってきた時、その体をふいてやらなくてもいいようになった。
私が仕事をしている途中でも、すぐに止めて散歩に出かけなくてもいいようになった。
水とミルクを毎日、取り換えなくてすむようになった。
夕方前に、魚をくれとうるさく鳴いて催促されなくてすむようになった。
ミャオが食べ散らかした魚の後片付けをしなくていいようになった。
ミャオに時々、他の食べ物をやらなくてもいいようになった。
私は、邪魔されずにひとりでゆっくり食事をとれるようになった。
風呂から上がった後、たらいに水を入れておかなくてすむようになった。
ミャオが夜遅くまで起きている時の相手をしなくていいようになった。
スーパーに行って、まず一番に生魚売り場に行かなくていいようになった。
買い物に行って帰る時間を気にしなくていいようになった。
好きな時に山に行けるようになった。
私は寂しい自由になった。
この一週間、私はよく眠ることができなかった。
真夜中、悪夢にうなされて叫び声をあげて起きたことがあった。
毎日が静かだった。
もうミャオのことを気にかける必要はなかった。
しかし、今、ミャオの面倒を見てやり、世話をしてやりたいと思った。
ミャオの体をなでたかった。
私の顔を見て、ニャーと鳴いてほしかった。
ミャオは、もういないのだ。
一昨日、久しぶりに山に行ってきた。それは、わずか1時間余りで頂上まで上がれる近くの山で、登山とは言えないほどの山歩きだった。
前回はもう3カ月も前のことで(2月26日の項)、余りにも間があいていて、バテずに歩けるか心配したくらいなのだが、幸いにも時間や距離が短いこともあって、ほとんど疲れることもなく、新緑の山を楽しむことができた。
しかし、山を下りてきて、時間がまだ早いこともあって、前から気になっていた離れた所にある里山の方に行ってみた。
それは、遠くの町まで買い物に行く時の途中の山間部にあって、その緑の山の一部が、まるで盛り上がり湧き立つような黄緑の新緑に被われていたからだ。
私は、この時期にはいつも北海道にいて、知らなかったのだ。しかし同じような色合いを見た覚えはあった。それは空港に向かう高速道路から見た光景だった。他の新緑とは明らかに違う鮮やかさ、それが照葉樹系のブナ科の木だろうことは分かるのだが、遠くから見るだけでは詳しく分からず、何の木だろうかと思っていた。
クルマを停めた田舎道の向こうから、地下足袋をはいて手に鎌を持ったおじいさんが歩いてきた。尋ねると、あれはシイノキやナラノキだという。そして近くで見たければ、自分の家の裏の夏ミカン畑の奥まで上がればよく見えるからと教えてくれた。
行ってみると、そのスダジイ(シイノキ)のふくらみ盛り上がる枝先が良く見えたのだが、それは新緑の若葉とともに、花の穂が開いていて、満開の状態で、あの黄緑が盛り上がりうねるように見えるのだと分かった。
ただし初めて見た時からもう2週間近くたっていて、花穂もだいぶん落ちてしまい、あのころの萌えあがる色合いは失われつつあったが、それでも十分に見ものだった。(写真)
ミャオが亡くなってから、少なくとも初七日を迎えるまではと思っていたのだが、いつもとは違う遅い季節までここに居ることになって、それによってミャオが私に教えてくれたのは、生命力にあふれるスダジイ(シイノキ)の新緑だったのだ。
「そしてとりわけ、わたしに明らかだと思われるのは、幸福になろうと欲しないならば、幸福になることは不可能だということである。それゆえ、自分の幸福を欲し、それをつくらなければならない。」
(アラン『幸福論』”幸福になる義務” 白井健三郎訳 集英社文庫より)