ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

オオバナノエンレイソウと「自助論」

2012-05-24 16:51:55 | Weblog
 

 5月24日

 ミャオのいない九州の家を離れて、北海道に戻って来てから1週間余りになる。
 気温は低めで、毎朝、薪(まき)ストーヴをつけなければならないほどで、部屋の中でもフリースを着ている。Tシャツで過ごせた九州と比べると、ここはやはりまだ春になったばかりの北国なのだ。昨日の朝の気温は6度で、日中に少し雨が降り、やっと10度まで上がっただけの肌寒い一日だった。
 そういえば、私が来るに三日前には、北見方面では雪が降っていたのだ。

 しかし、昨日以外は毎日青空が広がり、さわやかな風が吹き渡り、辺りの風景は見る間に新緑の色が増えてくきた。全く、いい季節だと思う。もっとも朝のうちは霧模様の曇り空で、昼前になってようやく青空が見えてくるという毎日だった。
 そのために、ここではあの話題の金環食ならぬ部分日食さえ見られなかったのだ。
 ただし、日本各地で金環食だと騒いでいた頃、ここでは窓から見る空が曇り空からさらに暗くなり、冷たい空気が流れ込んできて間接的に日食を感じることができた。いつもは深く思うこともない、何という太陽の恵みだろう。

 多くの人が見た天体ショーを見られなかったからといって、嘆くことはない。日ごろから自分にとっての大事なものを見ることができていれば、今さら残念に思う事でもない。
 それに私は、九州から乗った飛行機の窓から、まだ雪に被われた東北の山々(特に飯豊連峰と朝日連峰の広大な山域)を見ることができたし、さらに十勝平野の緑の小麦畑と牧草地、そして土色の畑の鮮やかなパッチワーク模様も間近に見ることができたのだ。そして何より今は、家の周りの新緑の光景が心浮き立つほどに素晴らしいのだ。
 
 私は、半年余りも留守にしていたわが家に戻ってきた。
 辺りは雪解け水と大雨でまだ水溜りが残っていたが、冬の間は北アルプスの小屋のようにきちんと小屋閉めをして打ちつけていたから、なんの変わりもなかった。ただ、家の中は冷気がこもっていて寒く、薪ストーヴで暖めるのに次の日までかかってしまった。
 それでも、家中に散乱する越冬バエやちりほこりなどを掃除してから、外に出た。
 もうすっかり緑一面になっていた庭の芝生の上には、無数のカラマツの枯れ枝が散らばっていたが、それより先に冬囲いの庭木の荒縄を一つ一つはずしていかなければならない。

 次に、自宅周りの広い林の中を歩き回って、冬の間の雪で曲がったり折れたりしている木や枝を片付け、あらたに小さな木の苗を植えつけたりした。
 薪小屋や倉庫などに降り積もったままのカラマツの枯葉をかき落とした後、芝生の庭や小さな畑に散乱する枯れ枝類を片付け、もう目立ち始めてきた雑草の草取りをして芝生の刈り込みをした。

 その合間に、もう時期的には遅いくらいの山菜取りに出かける。アイヌネギ(ギョウジャニンニク)に、ヤチブキ(エゾノリュウキンカ)、タラノメ、ウド、ココミなどであり、家に戻ってからそれらのハカマを取ったりするのも一仕事だが、何より体についたダニを見つけ出しつぶすのに一苦労なのだ。
 
 さらに畑を起こして、家の生ゴミやトイレ落下物などで作った二年物の堆肥を入れ、ストーヴで燃やした薪(まき)の灰を混ぜてうねをつくり、そこにジャガイモや野菜苗を植えていく。ただ、この家を建てた時に痛めた腰は今や持病になっていて、こうした仕事の後では、その痛みでおじいさん姿勢になってしまうのだ。あーこしこしと。



 「・・・昔々、あるところに、可愛がっていたネコに先立たれてひとりきりになってしまったおじいさんがおりました。
 そのおじいさんは、実を言うとその人生そのものが、まるでいい加減な冗談で作られたもののようであり、またその顔も自分の生き方を表すように、すべての部分が冗談めいた作りでできており、周りの村人たちは陰では、あの鬼瓦(おにがわら)じじいがと呼んでいました。
 そんなガンコで風変わりなおじいさんに、唯一つだけ残っていたものは、もの言えぬ生き物たちや草花や樹々に対するやさしい心だけでした。
 というのは、おじいさんは今まで、自分を含めて人々の口から飛び出してくる言葉というものが、いつしか予期しない怪物に変わり、多くの人の心を傷つけ悲しませる様を見てきていたので、そんな人間の言葉そのものに愛想が尽きていたからでした。

 だからこそ、もの言えぬ生き物や草花たちには、心おきなく話しかけることができたのです。
 おじいさんは、林に囲まれた粗末な家にひとりで住んでいました。しかし、そこにいて寂しいとは思いませんでした。なぜなら、周りにはいつも、人間以外の生き物や草花や樹々の気配に満ち溢れており、おじいさんが話しかければ、いつも誰かが返事をしてくれたからです。

 すべての生き物や草花たちにと言っても、中にはおじいさんの苦手なものもありました。一つはヘビでした。それはあのルナールの『博物誌』にも書いてあるように、”長すぎる”し、いつもぬめっているからでした。
 同じように長すぎる地下茎を伸ばして、どこにでも入り込もうとする、あのやっかいな外来種のセイタカアワダチソウなども好きにはなれませんでした。
 一方では、もちろんおじいさんのごひいきの者たちもいました。それは、今の季節で言えば、家の窓からも眺めることのできる、林の中のオオバナノエンレイソウの花たちでした。

 おじいさんが林を切り開いてこの地に住み着いた時には、わずかに二輪ほどだったのですが、今ではもう十八輪もの群れになって花を咲かせているのです。
 おじいさんがその花を好きなのは、まだ枯葉色が目立つ辺りの地面とは対照的な緑の葉と、そのすがすがしい白い花(実はがくだそうですが)にかすかな甘い香りなど、その立ち姿を含めた全部だそうですが、特にあのササの茂る中でもたった一本だけ咲いている姿を見ると、思わず周りのササを刈ってしまいたくなるとも言っていました・・・。」



 このオオバナノエンレイソウは、北海道では珍しい花ではなく、春になって明るい林の下草として群落をなしているのをよく見かけるのだ。
 家の周りでは、エゾヤマザクラの花が散り始め、代わりにスモモの白い花が咲き始め、林の中ではミズキの花もいっぱいに咲いている。
 小さな芝生の庭には、チューリップが咲きそろい、シバザクラの小さな花も開いてきた。辺りの樹々も新緑の勢いそのままに茂り始めてきた。今は、春の盛りなのだ。
 
 私は、しばしミャオのことを忘れ、母のことを忘れ、日々の仕事に追われて毎日疲れ果て、すぐに眠りについた。夜9時半ころに寝れば、明るくなる4時半には目が覚めてしまう。毎日やるべきことは、前の夜、寝る時に頭の中に思い浮かべてみる。
 こうして、こともなく規則正しく日々は過ぎていくのだ。何事もない決まりきったつまらない毎日ではなく、何事もない決まりきった心穏やかな毎日なのだ。
 
 ミャオのことを、少しずつ、ほんの少しずつ考えなくなり、私の中から哀しみの思いが少しずつ引いていきつつある。
 望むらくは、それは、私がここに戻ってきた時にまだあった、あの雪解けの水溜りの水が少しずつ引いていったように、いつしかその跡が残っているだけになっていてほしい。
 
 いなくなったミャオや母のことを、すぐに何もかもすべて忘れてしまえというのではない、死んだ時のつらく悲しい思いを忘れるべきなのだ。
 取り返せないものをいくら悔やんだ所で何になるだろう。在りし日の姿をいくら思い浮かべて、自分の愛の真実を振り返ってみたところで何になるだろう。
 ミャオも母も死んだのであり、自分は今生きているのだ。あの時のつらい思いは、忘れることだ。
 そして、死んだミャオや母に対しても、嘆き悲しみ弱り果てた自分の姿を見せるよりは、強く生きていこうとしている自分を見せることの方が、きっと二人とも喜ぶはずなのだ。
 
 ”天は自ら助くる者を助く”とスマイルズが『自助論』の冒頭で語っているように(4月22日の項参照)、自分を弱らせダメにしてしまうのも、自分の悲観的な考え方によるものだし、そうではなく自分を自ら鼓舞(こぶ)して強く生きていくのも、すべては自分の考え方次第なのだ。
 
 昨日は曇り空で、雨も降って肌寒く、一日中、薪ストーヴを燃やしていたが、今日はまた晴れて、気温も一気に20度くらいにまで上がった。山に行きたかったが、日高山脈の稜線には少し雲がかかっていた。
 大きな空にさわやかな風が吹きぬけ、雲が流れていった。私はここにいる、まずはそれだけで十分なことなのだ。

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