12月1日
このところは、比較的晴れて暖かい日が続いている。
ワタシは、夜に一度トイレに出た後は、コタツの中に入ってしまい、朝になって飼い主が起きてくるまでそこで寝ている。そして午前中をストーヴの前ですごし、やがて窓辺から差し込む光が十分暖かくなるころに、ベランダに出て、毛皮干しをしたり、庭で動き回っている飼い主を見たりして、時には一緒に散歩に出かけたりもする。
昨日も、飼い主は庭の落ち葉や枯れ枝を燃やしていて、ワタシはベランダから下に降り、先日の時と同じように傍に寄って行って(11月20日の項)、そこでしばらく体を温めていたのだが、飼い主がワタシの体をなでながら言った。
「動物というのは大体、火を恐れるというけれども、オマエはすっかり火に慣れていて、怖がらないどころか、こうして火の傍に寄ってくるほどだ。
まあ人間の思いこみというのは、良くあることだ。例えば、北海道に住むあの巨大なヒグマのことにしろ(8月20日、22日の項参照)、クマに遭(あ)ったら死んだふりをしろとか、山中でキャンプする時は火を燃やしていれば大丈夫だとか(山中のたき火は原則禁止であるが)、まことしやかな誤った情報が流されているんだ。
動物が火を恐れるというのは、人間が山火事になって逃げまどう動物たちを見て、思ったことなのだろうが、何にでも時と場合があるものだ。
都会の犬猫などは、燃え盛る炎など見たことがないだろうから、驚くだろうけれども、田舎の犬猫は、たき火を見ることはいつものことだから、火には慣れている。
前回書いたように、人間も動物も、歳を取って経験を積んでくると、何事にもそうびくつかなくなるものだよね。だから思うんだ、歳をとるというのは、そう悪いことばかりでもないとね。
オマエにしても、若いころの落ち着きのないミャオよりは、すっかりおばあさんネコになったけれど、今のミャオの方がずっと好きだよ。」
ニャオーンと一声、ワタシは飼い主の顔見ながら、鳴くのだ。
「数日前、遠く離れた町にまで仕事で出かけて行って、いろいろとあって夜になってしまい、家に戻ってくると、クルマの音を聞きつけたミャオが、外に出て待っていた。
可愛いものだ。遅くなった分、少し多めに生ザカナのコアジを、小さく切り分けて与えた。私の遅くなってごめんねという言葉に、ミャオはニャゴニャゴ返事しながら食べていた。
次の日は、ゆっくりと一日休養し、録画していたオペラを見ていて、思わず涙を流してしまった。
歳を取って涙もろくなったわけではないのだが、仕事のことや他の出来事などで、少しつらい気持ちになっていたからかもしれない。
そのオペラは、プッチーニの『トゥーランドット』である。今まで何度も、レコードやCDで聴き、ビデオなどでも見てきたオペラなのだが、どうしても、あのリュウが死ぬ場面になると、こみ上げてくるものがあり、時には涙を流してしまうのだ。
ジャコモ・プッチーニ(1858~1924)は、他にも、『ラ・ボエーム』『トスカ』『蝶々夫人』などの有名なオペラを作曲していて、あの『マクベス』『椿姫』『アイーダ』『オテロ』などで知られる、ジュゼッペ・ヴェルディ(1813~1901)とともにイタリア・オペラ界をのみならず、オペラ音楽史上に燦然(さんぜん)と輝く名オペラ作曲家である。
しかし、ヴェルディのオペラは、シェイクスピアなどの文豪原作ものが多くて、より芸術的な作品だと言われているのに対して、プッチーニのオペラは、通俗的でお涙ちょうだい的だと、少し低く見られているようにも思える。
もっともそれは、芥川賞作品と直木賞作品の優劣を決めるようなもので、いずれにもそれぞれの良さがあり、あくまでも読者が、文学作品として何かしらの感銘を受け満足できれば、あえて比較するまでもないことである。
同じように、これらのオペラ作品についても、芸術性云々(うんぬん)の話ではなく、観客や聴き手がそれぞれに感じ入るところがあれば、それで良いことだと思う。それが、オペラなのだから。
私は、最近ではすっかり、テレビでオペラを見るばかりになってしまった。その上に、作品や歌い手、演出や指揮者などで事前に見るか見ないか選んでしまうことも多い。
しかし、そのオペラの評価は、当然のことながら、演目やキャストで左右されるべきものではなく、ただその時に演じられた舞台を見てからのことだ。
そうして、今まで幾つものオペラ作品を見て聴いてきてはいるが、好みは限られつつある。あのバロック・オペラから、モーツァルト、ロッシーニ、そしてこのヴェルディからプッチーニあたりまでのイタリア・オペラ、さらにはワーグナーまでが私の限界だろう。
それらのよく知っているオペラは、例えば歌舞伎の名演目のように、それぞれに有名な見せ場や名場面があり、そこだけはその日の公演の良し悪しを左右する、大切なシーンでもあるのだ。
この11月下旬に、NHK・BSのハイビジョン放送で、またもや2009年度のいつものメトロポリタン・オペラが4本も放映されたのだ。ああ、ありがたや。その中でも、この『トゥーランドット』とオッフェンバックの『ホフマン物語』だけは、しっかりと録画しておこうと思った。
それほどに期待して見た二本だが、豪華な歌手達がそろった『ホフマン物語』は、また別の機会に書くとして、今回書きたいと思ったのは、思わず涙したこの『トゥーランドット』である。
物語の舞台は、中国のある時代、その王国の都、北京の王宮付近である。王国の美貌の姫君、トゥーランドットは、蛮族の侵入によって祖先のうら若き姫が略奪され凌辱(りょうじょく)されたことを恨みに思い、求婚してくる周囲の王侯貴族達に、あのスフィンクスのように、三つの謎かけをして、解けない場合は断首の刑に処し、「氷の姫君」と呼ばれていた。
そこに立ち寄った流浪の王子カラフは、その難問に挑みすべて答えてしまうが、自らも姫に謎かけをして、自分の名前が分かるかと問う。
そのころ、カラフの父親の元王である盲目の老人とその女奴隷リュウが、同じ城下にさまよい歩いて来ていて、彼らは再びめぐり会っていた。それを知って、トゥーランドットは、王子の名前を聞くべく、老人とリュウを捕えて拷問(ごうもん)にかける。(写真)
しかし、リュウは愛する王子のためにと自害して果てる。それほどまでの愛に、と目覚めたトゥーランドットはカラフの愛を受け入れる。
そんな筋書きの中で、私は、分かっていたのだ。今までも涙したことがあったし、あのプッチーニ節のメロディーにのって歌われると、またも泣かされると。
『ラ・ボエーム』で、貧しさの中、ミミが病に倒れ死んでいく時、『蝶々夫人』が、戻ってきたピンカートンが婚約者を連れてきていることを知って、自刃(じじん)に及ぶ時、そしてこの『トゥーランドット』で、女奴隷のリュウが、陰ながら慕っていた流浪の王子カラフの、トゥーランドット姫への愛が叶うようにと、自ら死んで行く時、私は、もう涙をこらえきれなくなるのだ。
何という、報われることのない愛に対する自己犠牲だろうか・・・。若き日に、私だけに一途な愛を見せてくれた娘たちに、私は、何ということをしたのだろうか・・・。私は、涙にくれながら、このオペラを見続けた。
しかし、このリュウの死の後、ラストまでのつながり方にはいつも何か違和感が残る。それはこのオペラが、プッチーニ自身の死によって最後まで完成されずに、リュウの死の所までで終わっていたことにも関係があるだろう。
そのことを嘆いても仕方がないが、書きあげられた所まででも素晴らしいオペラだし、プッチーニとしては見事な歴史劇としても仕上がっているのだ。
それには、今回の舞台演出のフランコ・ゼフィレッリの力も大きくかかわっていて、その壮大な舞台装置と衣装が素晴らしいのだ。(3月22日の項参照)
今や、ヨーロッパ・オペラが現代演劇化して、抽象的舞台装置や現代衣装になってしまっている現状と比べれば、離れた新大陸アメリカに残っているメトロポリタン・オペラには、オペラの伝統を受け継ぐ舞台演出が多く、安心して見ていられるのだ。
(文化は、波及的に広がって行き、中心部がすたれた時にはその周辺部が、今度は新たな中心部となる、という文化波及論がかつてあった。)
さらに歌手達について言えば、まずまずに満足できるキャストだった。
レコードの時代には、あのワーグナー歌手のビルギット・ニルソンが歌っていたほどの、ドラマティック・ソプラノのトゥーランドット役を、マリア・グレギーナは十分に歌い演じ切っていたと思う。
カラフのマルチェロ・ジョルダーニは、そんな彼女に比べると、十分には対抗できていない気がしたが、それは私たちが、ドミンゴやカレーラスを知っているからでもあり、さらにあの有名なアリア『誰も寝てはならぬ』だけをとれば、例えばもうその超絶のテクニックに感動するしかない、パヴァロッティの歌声を聴いているからだろう。
リュウのマリーナ・ポプラフスカヤについて、私は初めて見る歌手だったのだが、中にはその容姿をふさわしくないという人もいるようだが、余りに美人過ぎるリュウよりは、けなげに薄幸な女を演じていて十分だったように思う。
他に盲目の王を演じた、ヴェテランのサミュエル・レイミーの役域の広さにはいつも感心するばかりだし、そして王国の皇帝を演じたチャールズ・アンソニーは、何と81歳とのこと、絶句!
その幕間のインタヴューでは、さらに彼の本名が、カルーソー(レコード時代以前の超有名テノール歌手と同名)であり、若い頃、プロデューサーにカルーソーは二人もいらないと言われ、改名したとの小話も・・・。
歌声を楽しみ、舞台を楽しむ・・・いやー、やっぱり、オペラはいいなあと思う。
人間たちは、様々な面がある自分たちのそれぞれの姿を、他の人に見せるために、時には楽しく時には悲しく演じていく。何という、変わった楽しみを持っている生き物なのだろう。
自虐(じぎゃく)ネタを演じることのできる、唯一の生物なのだ、人間は。
話は変わるが、誰もが次世代にと期待している、歌舞伎界立役の伝統を背負う、あの名門俳優の事件。まさしく、新婚の奥さまの言った一言に尽きる。
生きてて良かった。」
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