ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(63)

2008-12-03 17:55:31 | Weblog
12月3日
 晴れて、良い天気だ。気温も15度くらいまで上がり、小春日和の暖かさだ。ワタシは、ベランダで寝ている。
 今まで寒い日が続いただけに、ずっと部屋の中にいたのだが、今日は、さすがに飼い主もストーヴもコタツもつけていないから、私も外にいるというわけだ。
 飼い主が、先ほどから柿の皮をむいている。渋柿を吊るして、干し柿にするつもりだ。おばあさんが元気だったころ、同じようにベランダで柿の皮をむいていたものだった。
 飼い主は、とりたてて干し柿が大好きだというのではなさそうだけれども、おばあさんの好物だったしと、つい習慣で、庭の渋柿を取ってきては皮をむきたくなるのだろう。ワタシもそれを見ると、そうかもう年の瀬が近づいてきたのかと思うのだ。
 飼い主が時々、陽だまりで横になっているワタシのほうを見ては、満足そうに微笑んでいるのにはわけがある。昨日、一晩ワタシが帰ってこなかったからだ。
 昨日の夕方、魚をもらったあと、みなぎるエネルギーで体を動かしたくなり、いつものように、飼い主に催促して散歩に出る。
 もう夕暮れ時で、ワタシも他の物音に敏感になり、あちこちで立ち止まり、わずかな距離のところをすっかり時間がかかってしまった。飼い主は、急ぐ用事があったのだろう、私を残して先に帰ってしまった。
 そこで、辺りの物音に耳をすませたりしているところに、なんと久しぶりにノラの仲間に会ったのだ。積もる話もあって、お互いにじっと見つめあったり、鳴き交わしたりしているうちに、時間がたち、すっかり夜になっていた。
 そこへ、心配した飼い主が戻ってきた。飼い主の呼び声に、ワタシも思わず応えて、鳴いて傍に寄って行った。飼い主が、帰ろうと私を促すが、ワタシは近くにいるノラの友達が気になって、ここを離れる気にはならなかった。飼い主はあきらめて、一人で帰って行った。
 ワタシは、しばらくはそのノラの傍にいたが、そのうちにノラもどこかに行ってしまった。もう真夜中になっていた。これからは、キツネやタヌキ、そしてイノシシに野犬までがうろつきまわる、危険な時間帯だ。ワタシは、その長い夜を、人のいない家の物陰に座って過ごした。
 朝方の気温は、それまでの毎日の、強い霜が降りるほどの冷え込みもなく、5度くらいもあって、そう寒くはなかった。それだから、そこでじっとしていることができたのだ。やがて日が昇り、ワタシは日の当る所へと少し移動した。
 そして、日がだいぶん高くなってから、ようやく飼い主が迎えに来た。ワタシは飼い主と鳴き交わした後、それでもまだ、外で一晩過ごして、野生の物音に耳が研ぎ澄まされていて、途中で何度も座り込み、辺りの様子をうかがった。
 
 「写真に見るように、ミャオの目は、家にいる時の穏やかな眼とは違って、大きく目を見開き、辺りを見回している。傍にいる私さえも、そんな目で見るのだ。
 野生の目をしているミャオは、私がいない時の、半ノラの時のミャオなのだ。私と一緒にいる時にも、たまにそんな目をすることがある。
 何かの物音がしたり、驚いたりした時だ。どんなに安心しきった状態にいる時でも、ミャオはいつも、もしもの時に備えているのだ。それで思い出したのが、ある絵に描かれていた猫の目だ。
 それは、明治から昭和にかけて活躍した日本画家、竹内栖鳳の『斑猫』(大正13年)である。
 前に(11月24日の項)、あの菱田春草や小林古径の、日本画の猫の絵に少しふれたことがあるが、彼らが狩野派の流れをくむ東京画壇であったのに比べ、竹内栖鳳は京都画壇、円山四条派の新しき改革者であった。
 彼は伝統的な、京都画壇の写実性を受け継ぎ、さらにヨーロッパにも渡り、大きな影響を受けて(特にコロー)、独自の境地を開拓したと言われている。
 『斑猫』は、落款(らっかん)を含めた日本画的な空間処理の中で、日本画とは思えないほどの視覚的描写が、なんとも見事である。特に、こちらを見つめるあの猫の目・・・。 
 話がすっかりそれてしまったが、ミャオの目を見て思い出してしまったのだ。
 ともかく、ミャオはいついかなる時も、自然の中で生きていることを忘れてはいないのだ。それが生き物の、生きることへの本能なのだ。人間のように、明日への希望がなくなったからといって、自殺したりはしないのだ。ただひたすらに生きること。何の理屈もない。どんな悲惨な状態になったとしても、決して明日をあきらめたりはしないのだ。なんとかして生き抜くこと。
 お笑い芸人の書いた『ホームレス中学生』が、ベストセラーになったというけれども、ミャオにとっては、ノラ猫たちにとっては、そんなことぐらいでと、お笑い草にしかならないだろう。
 それほどまでに、まず生きることが第一義にあるのだ・・・我々人間は、いつもそのことを忘れていて、他人と比べては、つい不平不満を口にしてしまうのだ。言ってみて、どうなるわけでもないのに。
 ミャオは、ただ鳴いているよりは、それならばともかく、まずひとりでなんとかしようとするのだ、生き延びるために。
 ああ、ミャオ、いつも、オマエから教わることは余りにも多い。」
 
 何か、飼い主がゴタゴタ言っているみたいだけれど、ともかくワタシは飼い主と一緒に家に戻ってきて、午後は暖かい小春日和のベランダでゆっくりと寝て、夕方、いつものように魚をもらい、そして飼い主がつけてくれたコタツの中にもぐりこんだのだ。昨日あまり寝ていないから、はい、おやすみなさい。