ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(60)

2009-06-03 16:42:18 | Weblog



6月3日
 拝啓 ミャオ様

 四日前の、10度にも満たないない、あの肌寒い日から、一転、この三日間は、20度を越えて、汗ばむほどの天気になった。
 この急激な温度の変化が、初夏の北海道の、天気の特徴であり、ぐうたらな私に、生活のめりはりをつけてくれる、ありがたい女王様の、ムチのひとふりでもある。
 アヘー、お許しを、と言いながら、その暑さ寒さに喜んで身もだえする。アホかおまえは、と言われるだろうが、しかし、これが、私の性向に合った北の天気なのだ。

 それにしても、良い季節だ。いよいよ九州、四国、本州と、梅雨に入る頃、北海道には、一月遅れの、五月晴れの空が広がるのだ。
 もっとも、この十勝地方は、朝夕とも、霧に被われることが多いのだが、しかし、昼前には、少しずつ霧が取れてきて、その灰色の雲の間から、青空が見えてくる時は、何とも心楽しくなる。
 この三日間、実にさわやかな青空が広がっていた。そんな時に、家の中にいたくはない。外での仕事はいくらでもある。 
 それまでは、朝になると、コルリ、キビタキ、アカハラとそれぞれに、美しいさえずりを聞かせてくれていたのだが、家の周りの林は狭すぎるし、適当な水辺もない。いつのまにか、聞こえなくなってしまった。
 しかし、それに代わって、朝早くから、カッコウが鳴き、やがて、センダイムシクイやアオジ、そして家の軒下に巣を作っているシジュウカラたちの声が聞こえてくる。遠くでは、まだオオジシギの、急降下の羽音も聞こえている。
 庭では、エゾヤマツツジが満開になり、レンゲツツジのオレンジ色の花も半分ほど開き、ライラックも、その紫の花が開き始めた。足元には、小さなチゴユリの花、林の中には、スズランにベニバナイチヤクソウも咲き始めた。見上げると、周りの樹々の新緑が、鮮やかだ。
 そして、日が当たり始めると、いっせいにエゾハルゼミの鳴き声が聞こえてくる。その林の中に入って行くと、もう耳を聾(ろう)せんばかりの鳴き声が、うるさいという言葉を通り越して、ただジーンと耳鳴りがしているようでもある。しかし、不思議なもので、その鳴き声にも、いつしか慣れてしまう。
 一町歩(3000坪)ほどしかない、小さな家の林だが、恐らく、数百以上はいるだろう、エゾハルゼミたちの鳴き声ではある。
 その樹々の幹には、幾つものセミの抜け殻が残っている(写真)。カラマツ、ミズナラ、カエデ、エゾヤマザクラ、ホウノキ、ハリギリなどの樹々であるが、太いものばかりではなく、まだ細い樹の幹にさえ群がっている。
 しかし、注意深く見てみると、シラカバの樹には、稀に一つ二つあるだけだ。恐らくは、シラカバの薄くめくれ易い、樹皮のためか、あるいは、その白い色が、彼ら幼虫の姿を、目立たせるためかもしれない。
 寒い日が続いた後に、暖かい晴れた日が続くことを予測して、いっせいに地中から出てきて、羽化したエゾハルゼミたち。
 私は、あの十日ほど前の、一匹のエゾハルゼミのことを思う(5月24日の項)。
 あのセミが、ただ一匹で鳴いていた時、他のセミの幼虫たちは、みんな、それを地表に近い所の、地中で聞いていたのだ。まだ、早いと。
 しかし、おまえ、少しだけ早く、晴れの舞台を目指して現れた、一匹のセミよ。おまえの、一匹だけの死は、決して無駄ではなかったのだ。他の、何百という仲間の、セミたちのための、時節を計る良い先例になったのだから。
 それはまた、来るべきおまえたちの、繁殖の春のための、有意義な犠牲(いけにえ)でもあったのだ。               
 アフリカのサバンナで、ライオンに襲われた一頭の獲物、しかし、そのために、他の群れの仲間たちは、助かり、繁殖のために、生き残ることができたのだ。
 自然界の摂理・・・、聞こえてきたのは、あのストラヴィンスキーの『春の祭典』・・・序奏の、静かな春の目覚めから、いっせいにすべてが活動し始める、あの音の氾濫(はんらん)だ。そして、やがて、太陽神のために、ひとりの乙女が犠牲(いけにえ)として捧げられる。
 おまえ、エゾハルゼミよ。おまえは、その仲間たちのための、聖なる犠牲(いけにえ)だったのだろうか・・・。

 そして、私は今、お互いにひとりはなれて暮らす、ミャオの元へ、梅雨の始まる九州へと、向かおうとしているところだ。ミャオ、その時には、元気な姿を見せておくれ。

                     飼い主より 敬具


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