8月2日
拝啓 ミャオ様
九州では、相変わらず暑い日が続いているようだが、ミャオは何とか元気でいてくれるだろうか。今回は早めに、戻るつもりだから、どうかその日まで、気をしっかり持って、私が帰ってくるのを待っていてほしい。
私よりは、はるかに年上のミャオにこんなことを言うのは、少し僭越(せんえつ)な気もするが、あの徳川家康公によるものとされる、『東照宮遺訓(とうしょうぐういくん)』の中に、有名な言葉がある。
『人の一生は、重き荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思わば、不足なし。心に望みあらば、困窮(こんきゅう)したる時を思い出すべし。・・・』
この言葉は私たち人間だけではなく、オマエたちネコの一生にもまた、同じように言えることだろう。
特にオマエのように、ノラネコあがりの上に、時々不在になる、落ち着かない飼い主を持ったネコにとっては。
そこで、先月のミャオの大ケガのことを思い出し、浮かんできた光景がある。子供の頃、よく見ていたバラエティー番組、『シャボン玉ホリデー』の一シーンである。
貧しい長屋の一部屋。布団に寝ている年寄りの父親役のハナ肇(はじめ)の枕元に、『おとっつぁん、おかゆができたわよ。』と、娘役のザ・ピーナッツの二人がやってくる。
父親は、中風になった手をふるわせながら、二人に言うのだ。
『いつもすまねえなあ、苦労ばっかりかけて。せめてオレが元気で働ければ、おめえたちにも、おいしいものを食べさせ、きれいな着物の一枚も買ってやれるのに。おっかさんが生きていればなあ。』
それを聞いて娘たちは言うのだ。『おとっつぁん、それは言わない約束でしょう。』
そこで、三人は泣き崩れる。すると小松政夫扮する悪役の親分がやってきて、借金のかたに娘はもらっていくと、引っ立てていこうとする。
その修羅場(しゅらば)に、あのお調子者の無責任男、若衆役の植木等が、かん違いして両者の間に入り込む。両者をなだめようと、さんざんしゃべった後、周りの皆がきょとんとしている所で、かん違いした自分に気がついて言う。
『お呼びじゃない。こりゃまた失礼しました。』
そこで、周りの皆はずっこけるという、お定まりのパターンだったのだが、このシーンが好きで、私はいつも楽しみにしていたのだ。
まるでミャオが、夕方にサカナをもらう時のように。
その時にはまた、勉強もしないでテレビばかり見て、と母親に叱られたりもしていたが、今にして思えば、あの低俗な番組を見ていたことで、まだ子供だった私は、いつしかあの昭和まっただ中の、日本人の心を学び取っていたのかもしれない。
人格の形成には、確かに親から受け継いだ遺伝的なものもあるだろうが、それ以上に、後天的なもの、つまりその後の環境の差によるところが大きいとも言われている。
ボーヴォワールの名著、『第二の性』の中には、『人は女に生まれるのではない、女になるのだ』、という有名な言葉があるが、それは、まさに社会の中で生きていく人間の、男女の本質を、見事に言い表している。
つまり私たちは、子供の頃から日常生活を送る中で、いつの間にか、アメリカ人でも中国人でもない、日本人の心を持つようになっていくのだ。
ところでこの三日間は、まるで初秋を思わせる涼しさで、今朝の気温は13度しかなく、日中でも20度を越えるくらいだった。
四日前までの30度近いむし暑さに、ぐうたらしていた私は、とたんに元気になり、それまで、アブ、サシバエ、カなどに刺されながらも続けていた草刈りを、ようやく今日で終わらせた。しかし、10日もたてば、最初に刈った所からは、もう新たに草が伸びてきていた。
林の中に幾つも咲いていた、オオウバユリの花は終わり、今は、庭の周りに、秋の花、アラゲハンゴンソウの花が咲き始め、キツリフネソウとハマナスの花もまだ咲き続けている。
ハマナスの少しどぎついまでの赤い色は、しかし緑の中では、ただ鮮やかにすがすがしい色である(写真)。それは、街中の同じ色の看板などの色とは別物の、確かに自然の中にある色なのだ。
こうした樹々や草花が繁る自然の中で暮らしている私は、日本という国の、現代文明社会の中の一員でもあって、いつもその二つの世界の差異に戸惑い、しかしあるときは感謝しながらも、それぞれを受け入れて生きている。
そんな日々を送る私に、知らされた悲報二つ。音楽評論家の、なかむらとうよう氏の覚悟のうえでの死。事前に身辺を整理していたそうだが・・・79歳。
東京で働いていた頃、当時の私の愛読書の一つでもあったのが、ロック、フュージョン、クロスオーバー音楽の評論誌『ニュー・ミュージック・マガジン』。その編集長であり、お会いしたこともあったのに・・・。
さらに42歳という若さで、自ら死を選んだ、元大リーガーの投手、伊良部。生きるということとは・・・。
しかし、そうした消失があるからこそ、生はまた輝くのだ。
最近見た、テレビ番組の中から二つ。一つは、NHKの『ダーウィンが来た』から、「シロイワヤギ 崖っぷちこそ理想の住まい」。
草原にいれば、エルクなどの他の大型草食動物と競合することになるし、そしてコヨーテなどに襲われないために、切り立ったロッキー山脈の岩場を住みかとして暮らすことになったシロイワヤギ。
何より感じ入ったのは、その急な岩場を上り下りできるようにするために、発達したひづめである。前の部分は二股に開きつかんで、後ろの左右の二つで受け止める。
その巧みな進化の形に、思わず私たち人間の岩登りスタイルを思い浮かべたのだ。昔は、あのビブラム底の重い登山靴で登っていたのに、今は伸縮性のある薄いクライミング・シューズに変わってしまった。
そこで、シロイワヤギのひづめを考えて、私たち人間の足裏を鍛えて、それで岩場に行けば、もっとしっかりと岩をとらえられるのではないのか、四本足になるのは同じなのだから。
そんな馬鹿げたことを話せば、馬でも鹿でもない、白いカモシカのようなあのシロイワヤギが、メエーと笑うような気もするが・・・。
次は、NHKスペシャルの『幻の霧 摩周湖 神秘の夏』である。ずいぶん前にも似たような、題材をテーマにした番組を見た記憶もあるが。太平洋を行くフェリーから、そして空のヘリコプターからと機動力をフルに使っての映像は、なかなかに見ごたえがあった。
いわゆる滝霧、滝雲の発生と、その移動のすべてをとらえているのだが、何しろハイビジョンの動画だけに素晴らしい。私も、今までに何度も山稜を越える滝雲は見ているし、写真にも撮っているのだが、とてもかなわない。自然界のスケールの大きさを感じさせられた一編だった。
(ただ、画面の右上のいつもの”NHK・G”だけでなく、左上には”幻の霧”とロゴ・マークが出ていて、せっかくアングルで決められた画面が台無しだった。余分なものは画面に映し出さないでほしい。テレビカメラの画像は、それで一つのカメラ芸術なのだから。)
ところで樹々に囲まれた家で、そんな自然界の話をしている私だが、文明の利器に、大きくお世話になっているのも事実だ。
田舎にいるだけに、クルマは絶対の必需品だし、このパソコンも手放せないし、テレビ、BRレコーダー、炊飯器に電子レンジ、そして冷蔵庫も必要だが、その冷蔵庫が壊れてしまったのだ。
春の山菜をしこたま冷凍していたのに、もうぐだぐだになってしまった。前日から少し変な音がしていたから、気づけばよかったのだが、分かった時には、もう遅かった。
無理もない、30年近くも使ってきたのだから。もっとも、留守の時も多くて、通電していたのは半年くらいだからとしても、10数年にはなる。とは言え、それでもまだ良かったのだ。この6,7月の間、スイッチを入れたまま私が留守にしていた時ではなかったから。
すぐに、商店をやっている友達の所に行って氷をもらい、冷蔵庫に入れ(昔の冷蔵庫はそうだった)、翌日、近くの町の大型家電販売店に行って、分不相応にも300Lクラスのものを買った。
二日後に届いた。背の高いグレー色の冷蔵庫は、たくさん物が入り、音も静かだった。私は、そっと腕を回して、冷蔵庫を抱いた。生きている音がしていた。
ミャオが、身動き一つせずに寝込んでいた時、心配してその体に手を当て、さらに耳を押し当てて、心臓の動きを聞いたことがある。
冷蔵庫もまた、そのミャオの心臓の音と同じように動いていた。私は、私ひとりでは生きてはいけないのだ。