ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(143)

2011-08-12 18:42:30 | Weblog



8月12日

 拝啓 ミャオ様
 
 全国的に猛暑の日が続いている。ミャオはどうしているだろうか。
 もともと夏には余り食べないオマエだから、体力を温存させるためにも、どこか涼しい所で寝ているのだろうが、何とか暑い毎日をしのいでいてくれ、必ず涼しい秋は来るのだから。
 
 猛暑といえば、北海道もそのあおりを受けて、毎日暑い日が続いている。昨日は、帯広、北見で34度になり猛暑日一歩手前だったし、あの霧がかかりいつも涼しく、25度くらいまでしかならない釧路でさえ、31度にまで上がり、8月の記録になったそうだ。

 林に囲まれている我が家でも、32度になったくらいだ。生来ぐうたらな私としては、外に出れば暑い上に、子孫繁栄の意欲に燃えるアブたちが待ち構えているとあれば、家の中にいるしかない。
 昨日は家の中でも26度まで上がり、さすがに蒸し暑かったが、断熱効果の効いた家だから、締め切っておけば、朝の涼しさが夕方まではもってくれる。家には小さな扇風機があるが、それも天井下の小屋裏換気に使っているだけだ。
 昼間は、テレビは余り見ないし、パソコンも余り使わない。どちらも熱を持って、部屋の中が暑くなるからだ。
 となると、本を読んだり、あるいは勉学にいそしんだりしているかといえば、その気は少しはあるのだが、いかんせん本来の怠け者、わずか1ページをめくっただけで、いつしか夢の中なのだ・・・。

 「少年老い易く学(がく)生り難し
  一寸の光陰(こういん)軽んずべからず
  未だ覚めず池塘(ちとう)早春の夢
  階前の梧葉(ごよう)すでに秋声」  (朱子の漢詩より)

 ああ、情けなや。思えば、わが人生の殆んどは、日々山を思い、山とともにあることを旨として、生きてきたような気がする。そのあげくに残っているものは、自分にだけしか分からない、数多くの山々の思い出の残滓(ざんし)ばかりだ。

 夜、ホーホーと低い声でフクロウが鳴いている。とある山里の、一軒家。うっそうと茂る樹々に囲まれた、その家の戸からもれる灯り。ギーコンバタン、と音が聞こえる。
 近寄って戸の隙間からのぞいて見ると、なにやらボロをまとった一人の年寄りが、機織(はたおり)に向かってのろのろと手足を動かしている。

 「今晩は。こんな夜更けに、何をしていらっしゃるのですか。」

 機織の手足が止んで、声が聞こえた。
 「何をしているかだと。それは、わしだけの仕事・・・。」と言いながら、こちら側に振り向いた。
 男のはだけた胸から、その皮が剥(は)ぎ取られて、機織につながっていたのだ。

 「今まで生きてきた、わしの思い出を織るために、わが身に宿る記憶を剥ぎ取っているのだよ。ほうれ、見事な山々の姿が見えるだろう。」

 伸び放題の髪やヒゲ、わずかに残った黄色い歯を見せて、不気味に笑うその顔は・・・、まぎれもなきあの鬼瓦権三(おにがわらごんぞう)の、成れの果ての姿でありました。あな恐ろしや、恐ろしや。

 イヤな夢を見て、私は目が覚めた。窓の外には真夏の青空が広がり、セミの声が聞こえていた。
 しばらく、寝たままでいて、私は何をしていたのかと思い返してみた。傍らには、文庫本の『小泉八雲集』が落ちていた。私は起き上がり、先日行ってきた山登りの、その記録の残りを書いておかなければと思った。

 というわけで前回からの続きである。

 いつものことながら、山ではよく眠ることのできない私は、眠れないままそしてつかの間の眠りをと繰り返しながら、目を覚ますと外はもう明るくなっていて、周りの皆は起きて食事の支度をしていた。カメラを持って外に出る。
 余り寒くはない、というよりも風もなく少し生暖かいほどだった。昨日見えなかったトムラウシ山も見えてはいるが、大分かすんでいる。その後ろにある雲にも、朝焼けは余り反映されなかった。
 ともかく快晴の朝だ。文句をつけている場合ではない。トムラウシへと縦走する人たちは、もう早立ちして出て行った。私も、少ない荷物をまとめてザックに入れ、5時過ぎには小屋を出た。
 テント場では、若者たちが撤収(てっしゅう)作業に取り掛かっていた。今日の行程は、白雲岳に登って、後は層雲峡に戻るだけだったが、夏山は雲が出るのが早いから、なるべく早立ちしたほうがよい。

 小屋からは、昨日下って来たハイマツの斜面を登り返して、雪渓傍のお花畑に出る。朝の光を浴び始めた花々の向こうに、トムラウシ山が見えている。(写真上)
 もう何度も写真に撮っている光景だが、今朝は今ひとつ透明感に欠けていて、山々がくっきりとしていないのが残念だった。
 分岐に着いて、そこにザックを置き、カメラを入れたサブザックだけで白雲岳に向かう。

 前後には誰もいない。広い火口原の先に、残雪をつけた山頂が見えている。上空は一面の青空だ。私の足音だけが聞こえている。
 小さなお花畑の斜面から岩塊帯をたどると、頂上に着く。この大雪山第三位の高さの白雲岳(2230m)から、第一位の旭岳(2290m)を望む眺めこそが、この山々の中での最高のものだと、私は思っている。(写真)



 この光景を、私は、何度見たことだろう。そして、何度写真に撮ったことだろう。
 まだ雪の多い山の晩春のころから、最高の縞模様になる今の季節、そして雪が少なくなりそこに紅葉の錦が混じる秋、さらに雪に被われてくる山の初冬にかけて・・・。 
 いずれも、白雲の高みを隔てて、巨大なお鉢噴火口の裾野が縞模様となり、その彼方に後旭岳と旭岳が連なるという形があればこその眺めなのだ。
 30分ほど一人きりの展望を楽しんだ後、下りようとしたところで一人の若者が登ってきて、少し話をしてから下りてゆく。さらに途中で、大学の山岳部らしい若者の一行にも出会った。
 私たち、中高年の登山者だけでなく、こうして若者たちが山に親しんでくれるのは、嬉しいことだ。

 分岐に戻り、再びザックを背に、昨日たどってきた北海平方面へと下って行く。お目当ては、昨日の曇り空で、余りうまく撮れなかったエゾコザクラのお花畑だ。
 そして、私の思いはかなえられた。青空、残雪の白、赤いエゾコザクラ。他に何を言うことがあるだろう。周りには人影もない。私は、大きな岩の上に座り、絵葉書的なその風景を眺めていた。(写真)


 
 そして次は、再び風に吹かれて、あの小さな花のクモマユキノシタに覆われた、北海平を歩いて行く。昨日と違うのは、青空が広がり、左手には旭岳も見えていることだ。大きなザックの若者が一人、さらに一人と通り過ぎて行った。
 北海岳(2149m)に着き、さてどうしようかと考えたが、まだ時間はあるし、この夏の盛りには敬遠して余り歩いたことのない、表大雪銀座コースへと向かうことにした。
 
 北海から間宮岳(2185m)にかけては、あのタカネスミレの一大群落に代わって、今はイワブクロだけがいたる所に咲いていた。間宮岳からは、銀座コースに合流して、さすがに行きかう人が多い.
 イワツメクサやシコタンソウの花が散在する道を、中岳、北鎮岳(2144m)の肩へと登って、後は下るだけだ。分厚い雪渓斜面を慎重に下りて行くが、反対側から登ってくる人たちは、すべるからと黄色い声を上げていた。
 お鉢展望台下から続く雲の平は、これまた小さい花のチシマツガザクラが一面に群生していた。

 そして、石室から黒岳への登り返しがある。風もないむっとした斜面を登って行き、やっとのことで観光ハイキング客などで賑わう山頂に着いた。
 その後の黒岳からの下りで、もうバテバテになっていた。今日は、昨日と同じ8時間の行程だったのだが、少し熱中症気味で、やっとのことで登山口に帰り着いた。そして、リフトに腰を下ろし、そこで涼しい風を受けながら水筒の残りの水を飲み干して、やっと一息ついた感じだった。
 層雲峡に下りて、黒岳の湯(600円)に入り、この二日間、幾重にも汗でコーティングされ、ベタベタになっていた体を、さっぱりと洗い流し、さらに、コンビニで、一本78円のアイスキャンディーを3本買い、それを食べながら、車の窓を開け放って、森林帯の大雪国道を走って行った。
 クルマから見る山々の稜線は、もう雲に包まれようとしていた。

 久しぶりの山旅を、無理をしないコースでたどり、山の良さを十分に満喫することができた。大雪の山々に、ただありがとうと感謝するばかりだ。

 ただ気がかりな一つは、たまたま白雲の小屋で出会って、少しだけ話した彼のあの言葉だ。その『運命に逆らわないこと』について、私は、別に彼と同じように病にかかったわけではないのだけれど、それを自分の中でも起き得ることとして理解したのだ。
 私は以前、木田元氏の一冊の本を読んで、運命についてほんの少しだけだが考えたことがある。
 つまりそこでは、運命とは、ハイデガー理論を踏まえてのその著者の言葉を借りれば、”個人的な時間構造の中で立ち現れてくる、相互主観的な強い意味”ということであった。(1月23日の項)

 そして、山小屋での彼の話を、自分のものとして理解する時、運命は言われるほどに運命的なものではなく、彼が言ったように、逆らうべきものではなく、ただ強い意味を持って、時間上を流れていくものの一つになるのだろう。

 話や言葉とは、その時に自分にとって興味のないものであれば、大して意味のないことにしかならないが、そこに自分の関心がある時には、まさに打てば響くように、共鳴しあえるものなのかもしれない。
 それは逆に言えば、私たちは、日常の中で、自分に興味のないものを、いかに数多く聞き流し、あるいは耳を閉じてきたことか・・・それが個人として聞き分けられる限界だったとしても。

 いや、そうであるからこそ、すべての物事にまで共感できないからこそ、微妙な思いの違いがあるからこそ、私たちは、個性溢れる個人であり得るのだ。
 思えば、こういった考え方こそ、複雑な問題に真剣に立ち向かうこともなく、いつも単純に解決したがる、私の悪しき習性の一つなのだ。そうしながら、私はまた、わがままでガンコな年寄りへの道をひたすらに歩んでいるのかもしれない・・・。 


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