ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシの飼い主(11)

2008-04-04 18:52:42 | Weblog
4月4日 昨日は晴れて、気温も15度くらいまで上がり、いい気分の一日だった.今日も晴れてはいるが雲が多く、ワタシは飼い主から一度外に出されたものの、何か肌寒く、もうストーヴは消されていたが、部屋に戻り、こうして寝ている。寒い冬の間についた習慣は、なかなか変えられないものだ。
 ワタシは前にも言ったように、ゼイタクを言うネコではない。衣食住の衣は、親からもらったいっちょうらの毛皮を、いつも毛づくろいして大切に使っているし、食べるものは、毎日、一匹20円くらいのコアジをもらえればそれで十分だし、住む所は、安全な飼い主の傍ならば、そして寒くなければどこでもよい。そんなワタシの生き方は、思えばワタシの飼い主にも似ている気がする。
 それは、よく言われるように、犬や猫はいつのまにか、飼い主に似てくるし、飼い主もまた自分の飼ってる犬猫に似てくる、と言うことなのだろうか。そのあたりのことを飼い主に聞いてみた。

「ミャオ、オマエそんなことによく気がついたな。それはつまり、お互いに子供のころから苦労したので、いつの間にか貧乏性になったということではないかな。貧乏というと、バカにされる時代だけれど、オレは決してそうは思はない。正しく、貧しくあることは、むしろ自分の誇りだと思っている。
 オマエも知っているように、オレは若いころ、バックパッカー・スタイルでヨーロッパを旅してまわったことがある。その時に、ノルウェーのフィヨルドにある小さな村で、アイルランドから来た娘に出会った。それからの三日間、二人で旅して回ったのだが、出会った次の日にオスロまで行き、そこののユースホステルに泊まった。その夕方のこと、食事に行こうと彼女を誘った。貧乏旅だから安い店を探してのつもりだったが、なぜか彼女は行くのを渋った。それならマクドナルドでハンバーガーでもと言うと、彼女はオレを見つめてこう言ったのだ。
 『わたしはパンとジャムがあるからいいの。いろんなものを見て、学びたいから旅に来たので、余分なことにお金をつかいたくないの。』
 オレは、一瞬立ちすくんで彼女を見つめた。その通りなのだ。自分では切り詰めた旅をしているつもりだったのに、とそれまでの自分を反省した。彼女と一緒にパン屋に行き、そこでパンを買って二人でベンチに座って食べた。彼女の笑顔の後ろに、遅くまで暮れなずむ空をシルエットにした木々があり、梢の葉が揺れていた。
 誰でも、自分と同じ考え方を持っている人に出会うと、嬉しいものだ。しかし、その時に、彼女をしみったれた子だと思ってしまったら、それまでのことだ。つまり、人それぞれの生き方は、同じ方向を目指している人に出会うたびに、より深められていくのだ、良くも悪くも。
 今の時代、誰でも、高価なものを身につけ、豪邸に住み、一流レストランで食事をして、高級車を乗り回すようになりたいと、憧れているらしいけれど、オレにはムリだな。例えそんなお金があったとしても、そんなことはできないな。つまり根っからの貧乏性ということよ。ミャオと同じよ。
 昔のあるエライお坊さんがこんなことを言っている。
 『足ることを知らば貧といえども富と名づくべし、財ありとも欲多ければこれを貧と名づく。』(源信『往生要集』)
 オマエは聞きたくもないだろうが、まだまだいろいろと話はある。が、ともかく今日はここまで。」

 まったく、それって貧乏人同士の強がり、開き直りということになりませんか。まあ、ワタシは食べて、寝る所があればそれでいいんですがね。


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