12月4日
こうして、冒頭に日付を書き込むと、月日のたつのは早いものだと思ってしまう。
10月半ばに九州に戻ってきて、すでに一月半がたち、言い換えれば、もうそれだけもの間、北海道を離れていることになるのだ。
九州で普通の生活ができることの、居心地の良さと、広大に広がる北海道への、追慕の思いとで・・・。
午後遅く、それまで青空だった空に、見事なひつじ雲(高積雲)が出ていた。
しばらく、そのまま見ていたくなるような、白い雲の帯が幾重にも連なり、背後にある空の広がりまでもが感じられた。
暦の上では、秋は終わり、冬になったばかりなのだけれども、空もまだ、秋の思いを引きずっているのだろうか。
そして、夕方に近いころに出てきたこのひつじ雲は、やがて夕日に染まって、大空一面に広がることだろう。
もし、これが北海道の家の前だったら、遠くまで地平線のように広がり続く、十勝平野のかなたに、日高山脈の山並みが続き、その上にある、広大な空のすべてが夕焼け雲に染まって・・・もうそれは、自分が周りのすべてのものに包み込まれていくような、ひと時の天空の舞台になるのだけれども。
残念ながら、この九州の山の中にあるわが家からはもとより、さらに近くの少し開けた所からも、北海道にいた時ほどの広々とした展望は得られないのだが、それでも、それなりの夕焼けの光景を楽しむことはできるし。(前回参照)
しかし、次に外を見た時には、雲はもう南の方に流されてしまっていて、ただ薄赤くなった夕暮れの空があるだけだった。
ものごとは、いつもなかなか思うようにはいかないもので、それだからこそ、思い通りの、いやそれ以上の光景が眼前に現れた時の喜びは、いや増して大きくなるものなのだろう。
期待して、待たされて、じらされて、不意にその時が来て、喜びは倍増して、飛び上がりたいほどの感情の爆発で・・・。
あの時、私たちは、二人並んで、夜道を歩いていた。
やがて、街燈の明かりから離れて、薄暗くなっている場所にやってきた。
私は、どきどきしていた。
もうあそこで、今日こそはと。
いや、それ以上に、私は何としてもやらなければならないんだと・・・。
彼女の肩の上に手を置いた時、薄暗がりの中で、私を見上げる彼女の眼がキラキラと輝いて見えた。
有無を言わさずに、その体を抱き寄せ、唇を重ねた。
それは、ほんの刹那(せつな)の、一瞬のことだったかもしれないが、私たち二人がどうしてもすまさなければならない、儀式のひと時でもあったのだ。
私たちは、顔を合わせられないほどに興奮していた。
そして、互いに手を固く握りしめて歩いて行った。
駅前で別れて、私は一人電車に乗った。
電車は夜遅くて、空いていた。
私は座席に座って、何度も自分の手を握りしめていた。
駅に着いて電車を降りて、しばらく歩くと、私はいつの間にか駆け出していた。
夜風が、びゅうびゅうと鳴る音が聞こえていた。
素晴らしい休日の一日だった。
しかし、時が流れ、それぞれの時間を過ごしてきた。
私たちは、もう長い間、会ってはいない。
それでも、思い出は繰り返すことができる。
生きている限りは・・・。
誰にでも、若いころがあって、誰にでも、同じような物語があって、しかし、それは誰でも同じではない、自分だけの物語であって、最後には、そのト書きのない舞台を下りて、道化役者よろしく、自ら幕引きをしなければならない。
”この世のすべてが一つの舞台、そこでは男女を問わず、人間はすべて役者にすぎない、それぞれに出があり引っ込みあり、しかも一人一人が、生涯にいろいろな役を演じ分けるのだ・・・。”
(シェイクスピア 『お気に召すまま』福田恒存訳 新潮文庫を基に)
またしても、家から見た雲の話から、いつしか若き日の思い出話になり、シェイクスピア(1564-1616)の舞台劇のセリフを借りて、自分の話におちをつけることになってしまった。
確かに、このブログは、私のもう一つの日記の意味合いを持っているものなのだが、どうしても思いつくままに書いているものだから、あっちにふーらり、こっちにふーらりと主題が定まらずに、はなはだ心もとない文章になってしまうのだ。
前回今回と、雲についての話が続いたけれども、それまで何回にもわたって書いてきた紅葉の話については、もちろん山の紅葉はすっかり終わってしまってはいるが、下の町まで下りと行くと、大きなイチョウの黄葉をはじめとして、今がモミジ・カエデの紅葉の盛りという所もあるくらいだ。
私の住む山里でも、まだドウダンツツジやコナラなどの紅葉が残っているし、ただ今の時期にやはり目につくのは、鳥たちのエサにもなる赤い木の実である。
それは、ピラカンサにナンテン、マンリョウなどであり、特にわが家の周辺では、この背丈が低く日陰にも強い、マンリョウの苗があちこちに自生しては、大きくなってきているのだ。
それというのも、庭の周りに植えていた他の木が、すっかり大きくなってしまって、そのために日が当たらなくなって背の低いツツジなどは枯れてしまい、代わりに、競争相手のいないこの日陰に強い、マンリョウやアオキなどが増えてきたということになるのだろう。
このマンリョウは、何よりも小さくまとまっていて、育てやすいし、赤い実が鈴なりになっている様(写真下)など見た目もいいから、そのまま増えていくのに任せているのだ。
このマンリョウという木には、白い実のなるものもあり、その紅白の実を並べて正月の縁起物の飾りとして、供(そな)えているところもあるようだ。
マンリョウ(万両)という名前の対になるセンリョウ(千両)という木もあって、同じような赤い実をつけて、こちらも正月飾りなどに使われるそうだが、マンリョウがヤブコウジ科で、センリョウは独自のセンリョウ科に分けられるほどの別物であるとのことだ。
ただ調べていて、このマンリョウは古くは”アカギ”と呼ばれていたそうであり、その名前はもちろん、秋から冬にかけて、印象的な赤い実をつけていることから来たのだろうが、ふと気になったのは、山の名前であり、あの上州の名山、赤城山(あかぎやま、1828m)のアカギと同じではないかと思ったのだ。
そこで今度は、赤城山の名前の由来を調べてみると、これは日本の山の名前によくある昔の伝説から来ているものとのことで、つまりその昔、日光男体山(なんたいさん、2484m)がヘビに化身し、赤城山がムカデに化身して相闘ったところ、ヘビが負けそうになり、その助太刀に来た弓矢の名人にムカデが射抜かれて、血まみれになって赤城山に戻り、辺り一面が赤く染まってその名前がつけられたということだが、確かに荒唐無稽(こうとうむけい)な言い伝えではあるが、考えてみれば赤城山はカルデラ噴火口を抱える大きな火山であり、記録の残らない古代に噴火して、山上付近が赤く燃えたとすれば、語り継がれてきたその話も、まんざら作り話ではないないような気もするのだが。
ともかく、いろいろと調べてきて、ふと私が思いついたのは、赤城山にはマンリョウの木が多く生えていて、その昔の呼び名アカギから山名がつけられたのではないのかということなのだが、残念ながら、私には何の資料も歴史的根拠もないから、おずおずと引き下がる他はないのだが。
ただ、こうしたことを考えついたのは、前回も書いたあのNHKの「日本人のおなまえっ!」は、最初からずっと見ているぐらいだから、単純にそのことに影響されたからなのかもしれない。
前回、このブログで書いていたように、”四十物”さんが”あいもの”さんと呼ばれるようになったくだりも、なかなか面白かったのだが、今回も”村のつく名前”から始まって、中村、西村、北村・・・など様々な村の名前がつけられ拡散していったという、その歴史的な流れも分かりやすかったのだが、面白かったのは、”木村”という名前だけは、それらの村のつく姓の中では、全く別な成立過程を経てきているということだ。
つまり、古代国家のころから、今でも吉野杉などで有名な、和歌山・奈良などの紀(木)の国に住んでいて、神社造営などに携わっていた一族が、やがて地名姓名改編で、縁起がいいとされる二文字に書き改められて、紀伊国、紀伊氏になり、祭祀(さいし)を取り扱う一族として認められ、全国の神社などに任官されていって、そこで由緒ある紀伊氏の一族の村を作っていったのだが、その名前のままの紀伊村では釣り合いが悪いから、元の木を使って、”木村”という姓にしたというのだ。
その一つの証拠として、提示された地図では、現在の木村という姓の人が多く住んでいる地域と、日本全国の有名神社がある所が、おおむね重なり合っているのだ。
テレビで、ここまでのいきさつを見てきて、私はもうただ唖(あ)然として、その後で拍手喝さいを送りたい気分になった。
私たち、年寄り世代は、幸か不幸か、いわゆる”ゲーム世代”と呼ばれる若い人たちのように、ゲーム器を使って楽しむことには慣れてはいないから、今さらピコピコピーなどと画面を見て遊びたいとは思はないのだが、その代わりに、こうした古い時代のことが書き残されている古文書・文献などを調べては、今に伝え残されている謎を解明していくことのほうが、目からうろこ的な驚きを伴っていて、どれほど興奮して面白いことかと思うのだが。
もうたまらん、八丈島のきょん!(昔のギャグ・マンガ「こまわりくん」の感嘆詞)
あーあ、今、年寄りで生きていられてよかった。