3月9日
今年の冬は例年と比べて、天気の良い日が多く気温も高めで、雪は三度ほど10㎝くらい降り積もったことがあったが、もう昔のように、3~40㎝も積もることはなくなってしまった。
こうして、”地球温暖化”という聞きなれた言葉が、いつしか日常的なものになっていくのだろうか。
さてそんな中、今年の冬はとうとう二回しか山に行かなかった。
それは、九州では雪の日が少なく、雪山を目指しての山歩きができなかったということもあるが、昔はよく出かけて行った冬の国内遠征登山もなく、ひとえに年ごとにぐうたらになりつつある私自身のせいでもあるのだが。
前回書いた九重山の扇ヶ鼻へ行ったのは2月初旬で、今回ここに書くのは、それから二週間後の同じ九重山への雪山ハイキングについてである。
もう3週間も前の、2月下旬のことを書くのも、いささか時期遅れな気もするが、ただでさえ少ない今年の雪景色の写真の中で、たいしたことはないにしても、とりあえずはこの時の雪山の記録として、残しておかなければならないということなのだ。
さて、その日は前日10㎝ほどの積雪があり、さらに当日も数㎝ほどうっすらと積もって、天気は回復して青空も広がりつつあったので、これは行かなければと支度して家を出た。
山道は一応除雪されてはいるものの、ずっと圧雪一部アイスバーン状態で久しぶりの雪道になっていた。(前回は、両側に雪が残るだけで、道にほとんど雪はなかった。)
そんな雪道をたどって九重の牧ノ戸(1330m)の駐車場に着くと、少し遅くなったこともあって、9時半でもう手前の方は満杯に近く、やっとのことで一台分の空きを見つけて停めることができた。
みんな九州の雪山を良く知っていて、待ちかねていたんだ、この雪降った次の日を。
登山者は、今日が平日ということもあって、半分は退職組の年寄りたちだろうが、後はコロナ休暇の職員や若者たちらしかった。
いつものように、そうした彼らに抜かれながら、遊歩道の霧氷のトンネルの下を歩いて行き、展望台に出ていつもの三俣山を眺める。変わらないが毎回どこか違っている、その美しい姿に見あきることはない。
さらに一登りで、沓掛山の稜線に上がる。
眼下の牧ノ戸の駐車場の彼方には、湧蓋山(わいたさん、1500m)が雲をまとってすっくとそびえ立っている。(写真上)
この山は、豊後森(玖珠町)から由布院に向かう国道や高速道からは、きれいなコニーデ(富士山型)に見えて、豊後富士とも呼ばれているが、ここから眺めてもその東尾根の伸びる形が素晴らしい。この山には、今までに雪のあるころとアセビ咲く春、そしてカヤトのなびく秋と三度ほど登っているが、いずれの時にも誰にも出会わなかった。草原歩きからのひと登りでその平らな山頂に立つことができて、少し離れた所にある九重の山々が見える。それは、まさに山群と呼ぶにふさわし眺めである。逆に言えば、この九重の主峰群からひとり離れてすっきりとそびえ立っていて、この九重連山の重要な、西北の砦のようにも見える。
さてこの沓掛山の西に延びる長い稜線に上がるところで、その北面にはいつもびっしりとついた霧氷が見えるのだが、そこはいつも吹きつける風の通り道になっていて、遅くまで霧氷を見ることができる。(写真下)
その沓掛山の細い尾根道をたどると、ほどなく山頂(1503m)に着き、いつもの縦走路を前面に配置して三俣山と星生山が見える、おなじみの光景が目の前に開ける。(前回参照)
これからさらに年を取って、脚が弱くなってきても、何とかここまで来ることができれば、九重山の絶景の醍醐味のひとつを味わうことはできるだろう。
さて、その沓掛山の岩場の下りを過ぎると、後はなだらかな縦走路が続き、雪山ハイキングになる。
広い道の両側を見ると、前回にはなかった雪による風紋の層が見えているし、これならばあの西千里浜で、風紋、シュカブラ、えびのしっぽ、菊花石などの氷雪芸術が見られるかもしれないと期待させてくれた。
なだらかな雪の道をたどり、霧氷の林のトンネルを抜け、一登りしていつもの扇ヶ鼻分岐に着く。
腰を下ろしてもう三度目になる一休みをとる。風はあるが、前回ほどの烈風吹きすさぶほどの強さはない。
空はひたすらに青く、雪に覆われた山々が美しい。扇ヶ鼻の山影を後に歩きだすと、その左手にくっきりと阿蘇山も見えてきた。
そして西千里を行く。おなじみの久住山の三角錐の姿が素晴らしいのだが、何と期待したほどの雪がなく、川の流れのように地肌さえ見えているのだ。(写真下)
もっとも、こうした西千里浜の冬の眺めは、もうこの数年余り続いていて、これからもあの厳しい冬の雪氷芸術を見られることはあるのだろうかと心配になってくる、地球温暖化という言葉は使いたくないけれど。
これ以上、登って行ったところで、私の今の体力からして久住山の頂に行くぐらいが関の山だしそれならば、いつものあの星生崎下(1665m)まで行って岩陰で腰を下ろして、九重核心部の山々を眺めるだけでも、この雪山ハイクの目的はかなえられるというものだ。
星生崎下の岩場をトラヴァース気味に上がり、突き出た岬の所をたどって行くと、岬の先端の岩塊と右手の肥前ヶ城の間に、阿蘇の根子岳、高岳(1592m)をはじめとする阿蘇五岳の山々が浮かび、その後ろ遠くに九州脊梁(せきりょう)山地の大国見岳(1739m)などが見えていた。(写真下)
今回は、ここまでで戻ることにした。
帰りも多くの人に抜かれながら、それでも雪がまだ泥水には変わってはいなかったし、十分に霧氷も残っていて、青空の下、5時間余りの良い雪山歩きを楽しむことができた。
思えばこれで、もうこの冬の雪山は終わりだろうが、嘆くことはない。今まで長い年月の間に、北海道や本州のいろいろな雪山を楽しんできたのだから。
こうして、脚が衰えてきて普通の雪山には登れなくなっても、まだまだこれから先も、ロープウェイやリフトを使って、雪山を見に行くことはできるのだし。
私の山に対する想いは、そのように続いて行くものであり、人生における様々な良し悪し経験とは別なところで、私とともに在り続けたものであり、誰でもが本能的に自分のうちに有している、生きる意志と同じようなものなのかもしれない。
前にもここに載せたことがあるが、高校の地理の教科書の欄外にあった言葉・・・”人間は地球を母として生まれ育ったその子供である(今では批判されることの多いアメリカの地理学者センプルの言葉)”・・・それが旧約聖書の、モーゼのくだりで、目の前で岩に彫り込まれていった神の言葉であったかのように、私の胸に響いたのである。
人の命は、自然の中で生まれ、自然とともに在り、自然を畏れ、自然の恵みを受けて、やがては自然に包まれて個は滅びてゆき、再び自然に取り込まれ同化して、また別な命が生まれて、営々と命はつながり、大きな生のくくりだけが残るものなのかもしれない。
人が生きているがゆえの八苦、生老病死、愛別離苦、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとくく)、五陰盛苦(ごおんじょうく)にあえいだとしても、すべては通り過ぎて行ってしまうものなのだ。
案ずることはない。
今地球上に生きている78億人もの人も、すべて亡くなって行く運命なのだし、今まで地球上に生存したと言われている1000億人以上もの人々たちすべてが、今はもう誰もいないのだ。
それを補うように毎日38万人もの新しい命が、世界の各地で生まれているという。
案ずることはない。
日々、夜になると私たちが眠りにつくように、神様はうまくしたもので、私たちに夜ごと死に向かう訓練をさせていて、ある時目覚めないまま、すべてが閉ざされ、死に向かうというだけのことだ。
1000億もの人々がたどった道なのだ。
案ずることはない。
またも『新古今和歌集』(久保田淳訳注 角川ソフィア文庫)より。
”山里に ひとり眺めて 思うかな 世に住む人の 心強さを” (前大僧正慈円)
次の歌はこの『新古今和歌集』の訳注に乗っていたもので、『後撰集』の読人知らずの歌一首。
”死出の山 辿(たど)る辿るも 越えななで 憂き世の中に 何帰りけむ”
10年前の、3.11三陸大津波の特別番組の映像が連日映し出されている。
何という自然のすさまじい勢い。
私たち生きている者は、そのことをしっかりと見ておかなければならない。
合掌。