ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

天飈に吼ゆ

2017-12-25 21:41:32 | Weblog



 
 12月25日

 昨日の夜から吹き始めた風は、結局は一晩中、強い風になって吹き荒れていた。
 穏やかな天気が続いて、穏やかな毎日を送っていた私には、まるで天変地異が起きたかのような、天候の変わりようだった。 
 台風の時以来の、久しぶりに聞いた、天空の吠え狂う声だった。

 ふと、高校時代の漢文の授業で習った、漢詩の一節が浮かんできた。

” 古陵(こりょう)の松柏(しょうはく)天飈(てんぴょう)に吼(ほ)ゆ ・・・”

(古い御陵にある、マツやヒノキなどの木々が、天空から吹きつけるつむじ風に吠えているようだ。)

 もっとも、この漢詩は、さらに”山寺、春を尋ぬれば・・・”と続いていく早春の山里の風景を詠んだものだから、今の師走(しわす)の大風とは関係ないものなのだが、何と言っても、この”天飈に吠ゆ”という一節が、吹き付ける風のすさまじさを見事に表していて、山登りで中腹の樹林帯を登っているときなどにも、たびたび思い出しては、ひとりつぶやいてみたりもする詞なのだ。

 改めて調べてみると、作者は江戸時代は幕末のころの漢詩人、藤井竹外(ちくがい、1807~1866)であり、この漢詩の題名「芳野懐古」からもわかるように、鎌倉時代終焉後の、南北朝時代の南朝の拠点であった、吉野の御陵跡を訪ねた時に書かれたものであり、その裏には南朝の衰退の悲哀も込められている。

 昨夜は、そうした強い風が吹き荒れたのだが、思い返せば、前の日にの夕方近くになって、前日に書いた(12月4日の項参照)あのひつじ雲の仲間である高積雲が出ていたのだが、それは、他のひつじ雲よりは比較的低い所にあり、波状高積雲と呼ばれていて(写真上)、さらにその後ろの西側には黒い雨を降らせる雲の塊も引き連れてきていたのだ。
 そして雨が降り、その雨の後、風が強くなってきたのだ。まさしく何かを予兆させるような美しく不気味な並びだった。
 今日もまだその余波が残っていて、曇り空の中、まだ樹々が揺れている。(今日は東北・北海道で風速40mにもなるとか・・・地吹雪の恐ろしさ。)
 さらには、昨日までの数日は、最高気温が10度を超えるような暖かい日々が続いていたのに、一転、冷たい空気がどっと流れ込んできて、午後になっても気温はわずか3度という寒さになっていた。

 それでも、この暖かい数日間の間に、毎日数時間ずつかけて、私はたまっていた家のことや庭仕事などを終わらせていたのだ。
 まず屋根に上って、降り積もっている枯葉などをはき落として、隣の物置の屋根もついでに片づけては、さらには残っていた植え込みなどの剪定を仕上げてしまい、家の前の排水溝にたまった枯葉枯れ枝などを取り除いて溝さらえをして、最後に庭の枯葉などをはき集めて、これで三度めの落ち葉焚(た)きをして、ようやくすっきりした気分になったのだが、昨夜の大風で、哀しいかな、庭はまたまた枯葉や枯れ枝に覆われて、またもう一度庭中を掃き集めて、風のない日に火の始末に最大限の神経を使いながら、それらを集め運んでは燃やしてしまわなければならない。
 やれやれと、腰は痛くなるし、焚火で体中に大汗をかいてしまうし(家に戻るとすぐに下着を着換えなければならないほどだ)。
 とは言っても、いいこともあった、庭の片隅に、前に(12月4日の項で)書いていた、あの赤い実のなるマンリョウに、なんと家にはないと思っていた白い実をつけるマンリョウの苗があるのを見つけたのだ。(写真下)





 まだ芽を出してから数年くらいのものだろうから(奥に見えるのは赤い実のもの)、とても今その実を採って、紅白の正月飾りなどにする気はないし、このまま枯れずに大きくなってほしいと願うばかりだ。

 そうして、家の庭仕事などはすることができたのだが、山には、まだ行っていないのだ。もう一月半もの間が空いてしまったが。 
 もちろん、その間、歩かないでじっとしてはいられないから、例の1時間はかかる、長距離の坂道ウォーキングをしたりはしているのだが、やはり山に登りたいと思うし、夢にもたびたび見るほどだ。
 二日前には、信州の八ヶ岳を縦走する夢を見たのだが、途中から天気が悪く下山することになってしまい、悔しい思いを残したままの夢だったのだが、それが、今の私の気持ちに相応するものだったのだろう。

 さて、今年も大きな町の本屋にまで出かけて行って、「山と渓谷」1月号を買ったのだが、”山の便利帳”という全国の山小屋案内などの付録がつくので、いつも買っているのだが、本文の方には”今年歩きたいベストルート100”の特集記事があり、有名登山家たちによる北海道から九州の島までの山々が紹介されていた。
 もちろんこうした企画は、今までも同じように、毎年の新年号の特集記事になって掲載されているのだが、単純で影響されやすい私は、いつもそうした案内記事によって、今年こそはと計画を立てては実行してきたのだが。 
 今回のそこに掲載されているコースには、今までにすでに登ったことのあるものも多いのだが、特に東北・上信越などにはまだ訪れたことのない山域がいくつもあって、今年こそはといつも思いを新たにするのだ。 
 しかし、地元の山に登っていても、体力の低下を自覚しているこの頃だから、とてもコースタイム通りでは歩けないだろうしと、いつも一日の行程を短くしての計画づくりになるのだが、まあその姿は、お迎えの時が近づいてきているのに、何ら自分の人生を振り返り悟ることもなく、目の前の我欲にだけ執心している、情けないじじいでしかないのかと思う時もあるのだ。

 そこで開き直って考えてみると、この”もの”に執着して、おのれの欲望を燃やし続けることこそが、もちろんそれは何をやってもいいということではないし、社会の道徳に反しないことを前提にしての話だが、年寄りの生きることへの原点になるものではないのだろうか。
 もちろん、それはすべての世代の人間に共通する生の本質でもあるのだが。 
 自分が住む社会の規律の範囲内で、時には相手を思いやり我慢しつつも、本来ある自分の思いをわがままに通していくことこそが、積極的に生きるということになるのではないのだろうか。

 というふうに、いつものこむずかしい話を書く気になったのは、昨日のあるテレビ番組を見たからでもある。 
 それは、テレビ朝日系列の『ビートたけしのTVタックル』である。 
 日ごろから、この番組を見ているわけではなく、つまりこうした専門家とタレントたちが混在した、討論番組というのがあまり好きではないから見たくないだけの話なのだが、今回はたまたま目に留まり、最近気になっているテーマが取り上げられていたので、途中からだったが、その部分だけを見たのだ。 
 それは”安楽死で死なせてください”という、週刊誌並みの刺激的なテーマになっていたのだが、今年92歳になるというあの有名脚本家の橋田寿賀子の思いや、そのほかのタレントたちのそれぞれの親が亡くなった時の思いなどはともかくとして、私が思わず見入ってしまったのは、現在、安楽死の問題と正面から向き合っているヨーロッパでの話で、特にオランダやベルギーそしてスイスなどでは早くから法整備がなされていて、安楽死協会があり、今までに数千人もの人の最後の手助けをして見送ったということであり、今回、最近その一人となったフランスの76歳のご婦人が、病状が進み回復の望みもないし痛みにも耐えられないからと、医師と度重なる面談を経たうえで、私が皆様のお役に立つならと、実名のままモザイクなしで撮られていた映像があり、そこには、介護人から致死量の睡眠薬が入ったカクテルを受け取り、それを飲んで、眠りから死ぬまでのシーンが写し出されていた。

 日本では、まだ安楽死については、殺人罪の適用も絡んで医師の倫理規定に反するからと、法整備もされてはいないけれども、今後さらに、日本人口の老齢化は進んでいくことだろうし、今以上に、”死んでいくこと”の問題は、大きな社会問題になることだろう。

 この後、日本のお墓事情も取り上げられていて、最近の納骨堂には、オートマのトランクルームよろしく、ICカードで自分の家のお墓がレーンで運ばれてくるものもあり、さらには、最近注目されている樹木葬や海洋散骨に宇宙葬なども取り上げられていたが、私はもうそれ以上その番組を見る気にはならなかった。
 もちろん自分の家族がそう望むのなら、願いに沿うような葬式にしてあげたいと思うのだが、しかし、こと自分の場合に限って言えば、私は死んだ後のことに関しては、全く興味がない。
 自分の意識が永遠に失われ、自分という現存在が死という形で遮断された段階で、自分はなくなってしまうのだから、ただ家族や友人知人の間で記憶という形で意識され残されているだけで、ただ自分が存在したという証(あかし)の骨壺や墓を作ったところで、骨の形のカルシュームや磨かれた花崗岩にしか過ぎないものを、と思ってしまうのだ。(亡くなった母とミャオの墓参りは欠かさないが。)
 そんな、自分の現存在が消滅した後のことを考えるよりは、今ある現存在の自分が、他の存在者や存在物とかかわって行くことのほうが重要であり、過去現在未来と続く時間の中で、未来にある死を自覚して、それまでの限られた時間の中で未来を目指していくことが、今を生きることではないのかと。

 つまり平たく言えば、ハイデッガーの『存在と時間』の考え方のままに、今ありがたく続いている時間の中で、私は生かされていて、生きていかねばと思っているのだが・・・。

 ”我々はどこから来たのか 我々は何者なのか 我々はどこへ行くのか”

 オランダの画家、ポール・ゴーギャン(1848~1905)の有名な絵のタイトルである。 

(東京竹橋の国立近代美術館での『ゴーギャン展』、2009.8.4の項参照)