ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

犬は喜び庭駆けまわり

2017-12-11 21:51:33 | Weblog



 12月11日

 一週間ほど前に、初雪が降って、薄く積もった。
 その後も、寒い日が続いて、小雪が降ったり止んだりの天気で、昨日までその雪が残っていた。
 今の時期に初雪というのは、珍しいことでもないのだが、いきなり初雪が積もるというのは、そうあることではない。
 庭のシャクナゲの木の枝葉にも、雪が降り積もり、そんな冬景色の中、一つだけ取り残されていた柿の色が鮮やかだった。(写真上)

 今年は、いつもよりずっと寒い冬になるという、前ぶれなのか。
 日ごろから、冬が好きで、雪景色が大好きだと広言している私だが、この12月に入ってからの寒さは、いつもの真冬の寒さが、もう今の時期から押し寄せてきているようで、朝の気温は当然のことながら毎日マイナスだし、日中も5度を越えない日が多く、外に出るにもいささかしり込みしているほどなのだ。
 年寄りになって、さすがの私も寒がりになってきたような気がする。
 着ているものも一枚増えていて、靴下も昔は、あの白いスクールソックスで一年中過ごしていたのに、今ではとても冬用の厚手の靴下をはかないとやっていけない。

 さらに加えて、ここは古い家で、気密性が良くなくてすきま風も多いうえに、旧態然とした暖房器具しかなく、家の中にいても寒いのだ。
 しかし、そうはいっても、年寄りの良いところは、何ごとにも我慢できるところだ。
 昔は、外も寒かったが、家の中にいてももっと寒かった。
 暖房は、居間の掘りごたつと、他の部屋には一つ火鉢(ひばち)が置かれているくらいで、子供のころには、その火鉢の上にまたがっての”股(また)火鉢”というか、体ごと火鉢の上に乗っては(よく火鉢が割れなかったものだが)、そうしてなんとか体を温めていたものだった。
 夜寝る時には、暖房がないから、家にいたネコ”みい”の取り合いになり、早く見つけて自分の布団の中に入れれば、天然ファー付きの発熱器を抱いて寝るようなもので、天国気分で眠ることができた。
 しかし、朝起きると”みい”はいない。周りの誰かの布団の方で、ニャーという鳴き声が聞こえてくるのだった。

 今は、子供のころから、全館暖房のセントラルヒーティングや、気密性の高い家での、エアコンやファンヒーターなどの暖房が十分にきいた所で育っているから、とても私たちおじいさん世代のころのような、乏しい暖房設備では暮らしていけないだろう。
 確かに、人間は当然のこととして、常により快適な環境世界を目指して、住環境を改変改造していくのだから、当たり前のことではあるが。
 しかし、いったん何事かが起きて不便な環境に戻された時に、経験のある世代は何とか対応できるだろうが、今の暮らしやすい環境だけしか知らない世代若者たちにとっては、まさに経験したこともない悲惨な状況になってしまうということなのだ。

 だからというのではないが、若者たちは、山に登るべきなのだ。 
 日常の便利な生活から切り離されて、なおかつ山の頂上に行くためだけにという、単純で見返りのないものを目的にするということで、そこには、計算で成り立つ町の暮らしとは別の、その場所の価値観だけで存在している、多くのものがあるということを知ることになるだろうから。
 さらにできれば、北アルプスなどの稜線に建つ山小屋に泊まって、下界の町での一般生活とは違う、様々な不便さを味わってみてほしいのだ。
 コンビニやスーパーがあるわけではないから、食べるものは選べないし、値段は高いし、水には不自由するし、風呂はないし、ポットン式溜め置きトイレの見た目と臭気にも慣れなければならないし、寝るときはマグロよろしく、知らない人たちと頭を並べて寝なければならないなどなど、そこには日常とはかけ離れた生活があるということ。
 それでも山登りには、それらの不便さをさしおいて、それまでのつらさの数々が一気に吹き飛んでしまうほどの、圧倒的な山岳美の景観に心打たれるひと時があり、それだからこそ、私たち”山好き”は、山に登り続けているのだが。

 冒頭から、こんな話をしてきたのは、こうして若者を説教している不便さになれた年寄りでも、新しいもののありがたさを思い知らされていて、今ではその快適便利さを前に、ただただ感心感謝しているからでもある。

 その文明の利器は、温水洗浄付き暖房便座である。
 今では、この年寄りが、キャィーンワンワンワンと、”犬は喜び庭駆けまわり”状態なのである。
 これまでにも書いてきたように、わが家のトイレは旧式の水洗トイレのままで、特に冬の時期は、時には気温がマイナス10度までにも下がる時があって、凍結予防もしなければならないのだが、それ以上に、夜中にトイレに起きて、お尻を出す時の冷え冷えとした寒さといったら、そこには小さな電気ヒーターを片側に入れているのだけれども、それではお尻の両側が熱帯と北極に別れた状態で、何とも片方の寒さには耐えがたいし、さらには着ているものを焦がしてしまう恐れもある。
 そこで、やっと今年の秋に決断して、この最新式便座を取り入れたのだ。
 もっとも、リモコンや自動開閉などの余分な機能はついていないし、ただ基本性性能がついてるだけの中価格のものだが。

 それで、今ではあの温かい便座が待っているのかと思うと、”暖かーい、あったかホームが待っている”というCMではないけれど、安心して夜のトイレ・タイムも楽しめるというものだ。
 温水洗浄の方は、もともとが二日に一回の”ウサギのウンチ”状態だから(痔気味なところで大腸がんの恐れが心配だが)、トイレットペーパーの使用も少なく、それほど大活躍の使用状況というのではないのだけれども、前にも書いたことのある、雪の北海道の家での下痢事件の時のことを思えば、普段から備えがあるということは、何ともありがたいことなのだ。
 つまり、この家で最新的なトイレ生活を楽しみ(というよりは今では日本のどこの家にでもこのシャワートイレがついているのだろうが)、また春に北海道に戻れば、一転、自作のトイレ小屋での不便さを味わわなければならないのだが。
 それでも、北海道が好き!八丈島のきょん!

 ところで、下の話であるトイレ話はそのくらいにして、上の話である山のことだが、山の紅葉はもうずいぶん前に終わり、次の、冬の霧氷や雪山の季節が始まっている。 
 今月の初めには、その山道を走るために、クルマのタイヤを冬タイヤ(スタッドレス)に換えて、いつでも出かける準備はできているのだが、なかなかその気になる時がやってこない。 
 条件は、クルマで駐車場がいっぱいにならない平日で、前の日に西高東低の冬型の気圧配置になり、それまでに雪が降っていても夕方には風も次第に収まり、翌日は西から張り出してきた高気圧に覆われて晴れるという予報が出ている時に、なるべく朝早くから出かけて(凍結した道はいつも心配だが)、霧氷や樹氷が溶け落ちる午前中までに歩き回れる山へと行くこと、これまたヒマな年寄りにしかできないことなのだが。
 と言いつつ、今回もまた、前回登山から一か月以上も間が空いてしまった。せっかく、秋の紅葉時期に相次いで4回続けて登っていて、さすがに最後の方では、われながらすっかり山になれた脚運びになったものだと感じていたのに。これでは、”元の木阿弥(もくあみ)”である。

 その頃の紅葉の山で出会った同年代の人は、一週間に一度から二度は山に登っていると言っていたし、あの『まいにち富士山』(新潮新書)で有名な佐々木茂良さんは、今年76歳になるというのに、天気が良ければ(積雪期の半年間を除いて)いまだに毎日富士登山を続けていて、その著書が出版された6年前には819回だったのだが、今ではもう1400回に近いとのことだし、(私の富士登山の際(’12.9.2,9の項参照)、須走ルートから下山する時に途中の小屋でお会いして、二言三言話をした人が、確か彼ではなかったかと思うのだが)、さらには、エヴェレストでの80歳高齢者登頂の記録を持つ、あの三浦雄一郎さんに至っては、今だに錘(おも)りの入った靴を履き、20㎏分のペットボトルの入ったザックをかついで毎日歩いていて、次なる目的の山は、チョ・オユー(8201m)とのことだが。

 今の時代でも、体力的にも絶頂にある、数多くの若い登山家たちがヒマラヤなどの高峰の難ルートに挑み、成功し初登頂しているのは、まさに超人的な登山記録として賞賛され語り継がれることになるのだろうが、一方で、若い時よりははるかに体力気力の衰えた高齢者たちが、いまだに若い人たちのような気概をもって自分の目的を持ち続け、確実に実行しているというのは、それにもまして賞賛されるべき価値のあることだと思うのだが。

 もちろん、そうした超人偉人的な人々を引き合いに出すまでもなく、この私めは、なんと意志薄弱のご都合主義で、常に安きに流れ、気分次第のお天気屋で、ぐうたらな毎日を送り、だらしない巨体を持て余しながら、風呂で屁をこいてその泡の勢いで、今日の元気さを知るという何ともわけのわからない毎日を送っていて、全く、世の中には、同じ世代の模範・鑑(かがみ)となるべき立派な人たちがいるかと思えば、こうしてはぐれ雲のように、あてもなくただ流れているだけの、しょうもない私のような人間もいるわけで、世の中に、そうした硬軟取り混ぜて・聖俗様々な人々が存在しうるというのは、まさにそれこそが、すべてのものをつかさどる偉大なる自然の神の、巧みな差配によるものなのではないのかと、言い訳めいた、我田引水(がでんいんすい)的な結論を自分に言い聞かせているのだが。

 ”われわれに起きる幸不幸は、それ自体の大きさによってではなく、われわれの感受性に従って、大きくも小さくも感じられる。”

(『ラ・ロシュフコー箴言集』528 二宮フサ訳 岩波文庫)