旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

異邦人

2006年01月22日 18時35分16秒 | Weblog
「安楽死」って人類にとっては意外に普遍的な問題なんじゃないでしょうか?キリスト教世界には天国があるように、仏教にも浄土思想があります。

アルベール・カミユはその著作「反抗的人間」で、殺人には「衝動的殺人」と「論理的殺人」のふたつの種類があるという書き出しで、彼のいう「反抗的人間」について述べています。
論理的殺人とは、文字通り相手を殺すことが合理的な殺人であって、かなり飛躍しますが、個人主義が蔓延する近未来で、自らの意志を貫徹するための殺人というものは一定の個人的な論理性を備えているであろうから、殺人者を裁判官が裁くのではなくて、逆に、殺人者が裁判官を裁く妙な事態になるであろうという予見をしています。確かに、最近の犯罪にはこのタイプが多いように感じます。

安楽死の実行なんて典型ですよね?生きている者を殺すのですから安楽死は殺人です。しかし、一定の要件を備えた安楽死殺人の場合、その責任を問わないが故に、逆に裁く側がその責任を問わない理由に答えなければなりません。だから、立法化が急がれるのではないでしょうか?
だけど、法によって殺人罪を免責する根拠を論理的に証明することって難しいでしょうね?安楽死を実行する者は論理的殺人者、つまり典型的な確信犯なのですから。安楽死殺人の場合、判例法ではどのような判断を下しているのでしょう?

自らの意思が機能しているうちは、他人の意思でもってわたしの生死与奪の議論はして欲しくない。医学的にみて人間としての意思を完全に失ったら、焼くなり埋めるなりお好きにどうぞってことになります。だって、何が起こっているのかわたしには解らないのだもの。
われら凡俗には、この境界を裁量することは多分できないことでしょうね。だからこそ安楽死は、究極のところ神様、仏様が決定する領域なんでしょうね?人間の英知にも限界ってものがあるのですから。