旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

快楽病

2006年01月11日 21時35分18秒 | Weblog
人工透析病院を経営する敬愛する先生から興味深い話を聞いたことがあります。命にかかわるから、暴食はやめなさいと指導する。患者さんは平気で暴飲を繰り返す。そこで、家族の協力も得て家庭内でも監視する。すると、外食で暴飲を繰り返す。仕方がないから入院させる。ところが好物を病院に持ち込んでやはり暴飲を繰り返す。医師として怒り心頭に達して、そんなことを繰り返していると死んでしまいますよと叱責する。すると患者さん、しかられた子供のようにしょげかえった風をするが目は笑っている。こういう患者さんって最後には決まって、どうせ死ぬのだから、うまいものをたらふく食って死にたいと平然と返すのだそうです。
この患者さんのように何でも自分に快感を与えることに流れ、自分をコントロールできない患者さん、透析患者の何割かを占めるこういうタイプの患者さんのことを、先生は「快楽病患者」と呼ぶそうです。そして、こういうタイプの患者さんには、死に対する恐怖感というものが希薄なのだそうです。

パターナリズム

2006年01月11日 21時34分13秒 | Weblog
今月号の「月刊現代」で立花隆と「脳外科の最高権威」片山容一日大教授が対談をしています。

片山教授
『患者の最善の利益の決定の権利と責任は医師側にあり、医師は自己の専門的判断を行なうべきで、患者はすべて医師に委ねればよい。』こういう考え方を医学用語でパターナリズムといいます。患者の利益になると思われることをする。それ自体は正しいと思います。しかし誰が患者の利益を判断するのか。医者が判断するのであれば、医者の独善に陥る恐れは常にあります。医師の善意による行動が、結果として患者の不利益になった例は枚挙にいとまがありません。・・・パターナリズムが医療の核心であるから、究極的にはその医者を信じるのかどうか、すべてはそこにかかってきます。患者としては、担当医がこの方法こそが最善であると信じているならば、わたしはそれに同意しよう。結果的にそれが正しくなかったとしても、甘んじて受け入れる。結局はその一点に尽きる。
だからこそ医者は、この原理を重く受け止めて、独善に陥らず、常に自戒して、拡大解釈を許さないように努めなければならない。

禁じ手の「まるごと引用」で申しわけありません。治療継続かホスピスか、このあたりの判断はお医者さんに任せるしかないようですね。

お医者さん

2006年01月11日 21時32分22秒 | Weblog
頭から血が噴出して止まらない患者の治療を終えたばかりの医師からこういう話を聞いたことがあります。
「さっきの患者さんは頭蓋骨を骨折しており、未だに、痛い痛いと呻いている。でも、その痛みは人体が受容できないほどの痛みだったろうから、患者さんご自身は痛みを感じていない思う。
人体というものはよくできていて、頭上で原子爆弾が炸裂しても、その爆音は聞こえないし凄まじい閃光はみえない。同様に人体は、許容できないほどの痛みを感じないようにできている。
患者さんは今、痛いという夢をみてうなされているにすぎない。痛みを感じ始めると、驚嘆して麻痺した痛みを感じる脳の機能が回復し、やがて治癒に向かうということになる。」
こういう話は、激痛というものに対して恐怖感をもっているわたしのような者を癒してくれます。死の恐怖をいくぶんか和らげてくれます。

「痛みの中枢は脳のここにあります。ここを切開すると痛みを感じなくすることだって可能ですよ。でも、メスがすべると言語障害になる可能性もあります。脳のここらを針でつつくと白昼夢を見ることができます。お望みの夢を見ていただけるかどうか、そこまで医学は進歩していませんが。」
天皇裕仁の例を待つまでもなく、医者の処方によって患者の死亡時期は調整できます。だから、単に延命のためだけの治療をやめれば人は楽に死ぬことができるということになります。見ず知らずの他人の意思に左右されるような安楽死は嫌ですから、わたしは信頼できるホームドクターに最後の判断をゆだねています。また、医者の殆どは、患者の安らかな死を望んでいると考えています。