昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

じゃこしか一代記(9)小学校での想い出

2007-04-23 17:19:28 | じゃこしか爺さんの想い出話
       
                 <初めに>                

 今日ブログに載せようとするのは、あの想い出すのも忌まわしい戦時中の出来事です。そうかと云って、嘗ての戦争を賛美するものでもなく、また戦争そのものを懐かしく思っているわけではありません。
 むしろ父の命が奪われ、さらに長兄がシベリアに抑留されたことを思うと、戦争にたいする恨みつらみばかりが残っております。またあの戦争さえ無ければ、母も他の兄たちも早死にする事は無かったはずです。
 いわばマインドコントロールされた一億総国民が、一方向へ追いたてられていた、不幸な時代の、とある少年の辛い想い出につながる一つの出来事なのだと、分かって頂ければ幸いに思います。
           
             ・・・ゴム靴とゴム毬の支給・・・
 
 太平洋戦争が激しくなるにつれ、生活への制約は日毎に厳しさを増して行きました。食料品・衣料品などの必需品はことごとく統制化されて、満足に手に入らなくなってゆきました。それは子どもたちも同じで、不自由さは日増しにつのり、通学に必要な衣類はもとより履物にまで及んだのです。
 当時の履物は内履き外履きをとわず、ズックの運動靴かダルマ靴と呼ばれるゴム靴が一般的でした。その靴にしても当然配給制でしたから、破れたからとすぐに買うことはできません。きめられた配給日まで待たねばならず、また配給日だからといっても、必ず手に入るとは決まっていなかったのです。
 配給品の数には制限がありましたから、早い者勝ちだったのでいかにして早く並ぶかが大事で、それのまた各家庭での配給切符の残りにも左右されました。
 どこの家庭でも、常に衣服を優先していたので、靴などは後にまわされて満足なものは殆ど見られず、継ぎをあてたり綿糸でかがったりしたものが多かったのです。たとえ満足なのが在ったとしても、それらは兄たちからのお下がりなので、たいていはブカブカと大き過ぎて足に合っていませんでした。

 それは確か、太平洋戦争が始められた、翌年の2月のことだったと思います。ある日の朝礼で校長先生が珍しく笑顔一杯で話し始めました。
 先日南方の戦線でシンガポール(昭南島)を占領したことは、みんなも既に知っているでしょう。その戦勝祝いの贈り物が、夕べこの学校にも届きましたので、後で教室へ戻ってから貰って下さい。

 教室へ戻り一人ひとり先生から手渡された物は、新品のゴム靴とゴム毬でした。 それもまだうっすらと白い粉が付いているピカピカの新品、一気に教室中に喜びの声で沸き返りました。
 どうやら占領した南方の原料で造られたようで、ゴム毬は軟式のテニスボールと同じで、ゴム靴は生ゴム状のとても柔らかでした。ゴム靴のほうは、運動などで急停止すると靴の先だけが、今にも破れんばかりに伸びるのです。
 先が破れて親指が突き出るのではないかと、心配でならず手加減するのですが、直ぐに夢中になって走り廻ってしまいます。
 しかしその時のダルマ靴は、ゴムの質が上等にできていたのか、そうは簡単に破れることもなくとても長もちしました。

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2 コメント

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じゃこしかさん、こんばんは (polo181)
2007-04-23 21:26:07
その頃、内地にいた私たちとほぼ同じ状況です。ただ、ダルマ靴は知りません。布製のズックでした。戦況が悪化してからは、その配給もなくなったので、農家から稲藁を貰ってきて、木槌でトントン叩いて柔らかくし、それで自分のゾウリは自分で作ったものです。素足にわら草履でしょう。雨の日と雪の日の辛さは言い表すことができません。
貴方の記述は正確ですから、とても貴重です。<急停止すると靴の先だけが、今にも破れんばかりに伸びるのです>の一文から、どのような靴だったかは想像できます。
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poloさん今晩は (じゃこしか)
2007-04-24 20:44:14
 コメント有難うございます。
稲藁を使っての草鞋つくりは私たちもやりました。ただこちらでは雪道では無理なので、布切れを織り込んで校内用をつくり、外用には藁靴を習いました。ですから草鞋なら今でも作る自身があります。
 どれもこれもみんな懐かしいですね。
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