<初めに>
今日ブログに載せようとするのは、あの想い出すのも忌まわしい戦時中の出来事です。そうかと云って、嘗ての戦争を賛美するものでもなく、また戦争そのものを懐かしく思っているわけではありません。
むしろ父の命が奪われ、さらに長兄がシベリアに抑留されたことを思うと、戦争にたいする恨みつらみばかりが残っております。またあの戦争さえ無ければ、母も他の兄たちも早死にする事は無かったはずです。
いわばマインドコントロールされた一億総国民が、一方向へ追いたてられていた、不幸な時代の、とある少年の辛い想い出につながる一つの出来事なのだと、分かって頂ければ幸いに思います。
・・・ゴム靴とゴム毬の支給・・・
太平洋戦争が激しくなるにつれ、生活への制約は日毎に厳しさを増して行きました。食料品・衣料品などの必需品はことごとく統制化されて、満足に手に入らなくなってゆきました。それは子どもたちも同じで、不自由さは日増しにつのり、通学に必要な衣類はもとより履物にまで及んだのです。
当時の履物は内履き外履きをとわず、ズックの運動靴かダルマ靴と呼ばれるゴム靴が一般的でした。その靴にしても当然配給制でしたから、破れたからとすぐに買うことはできません。きめられた配給日まで待たねばならず、また配給日だからといっても、必ず手に入るとは決まっていなかったのです。
配給品の数には制限がありましたから、早い者勝ちだったのでいかにして早く並ぶかが大事で、それのまた各家庭での配給切符の残りにも左右されました。
どこの家庭でも、常に衣服を優先していたので、靴などは後にまわされて満足なものは殆ど見られず、継ぎをあてたり綿糸でかがったりしたものが多かったのです。たとえ満足なのが在ったとしても、それらは兄たちからのお下がりなので、たいていはブカブカと大き過ぎて足に合っていませんでした。
それは確か、太平洋戦争が始められた、翌年の2月のことだったと思います。ある日の朝礼で校長先生が珍しく笑顔一杯で話し始めました。
先日南方の戦線でシンガポール(昭南島)を占領したことは、みんなも既に知っているでしょう。その戦勝祝いの贈り物が、夕べこの学校にも届きましたので、後で教室へ戻ってから貰って下さい。
教室へ戻り一人ひとり先生から手渡された物は、新品のゴム靴とゴム毬でした。 それもまだうっすらと白い粉が付いているピカピカの新品、一気に教室中に喜びの声で沸き返りました。
どうやら占領した南方の原料で造られたようで、ゴム毬は軟式のテニスボールと同じで、ゴム靴は生ゴム状のとても柔らかでした。ゴム靴のほうは、運動などで急停止すると靴の先だけが、今にも破れんばかりに伸びるのです。
先が破れて親指が突き出るのではないかと、心配でならず手加減するのですが、直ぐに夢中になって走り廻ってしまいます。
しかしその時のダルマ靴は、ゴムの質が上等にできていたのか、そうは簡単に破れることもなくとても長もちしました。