昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

馬鈴薯・南瓜そして甜菜(樺太想い出日記より)

2005-09-24 17:46:57 | じゃこしか爺さんの想い出話
 最近季節のせいか新聞紙上などに、畑作の生育状況やら既に収穫された農作物の情報が数多く掲載されはじめて来たようです。
 ウォーキングのコースとして時折り訪れる、郊外の自転車道路脇の空き地を利用して作られた、付近の住民達の畑も既に取り入れがあらかた終わっていた。
それらを目にして思い出したのが、子どもの頃戦後樺太で経験した畑作のことでした。

 戦後樺太の食糧難は想像を超えるものでした。当然ソ連の統治下にあったわけで、食料などの供給は厳しい統制制度により配給されていました。もはや日本から米などが来る筈が無いのですから、日を追うごとに米の配給が減ってゆき、やがて全く無くなり大豆がその米に替っていったのです。
 そのような食料事情にも地域差があり、私たちが終戦直後まで住んでいた炭鉱町では、大豆が主体となっていたのですが、戦後間も無く移り住んだ、拠点都市のE市の在では、それ程逼迫されておらず、米などの配給量こそ目に見えて減ってゆきましたが、ある程度予定通りに配給されていました。
 その米は、確かな事は分かりませんが朝鮮米だろうと噂され、しかもその米は籾殻付きで配給されていたのです。精米などは予め臼などで籾殻を取った後、更に小分けにして一升瓶に入れて棒で突く方法で白くしていたのです。ですから今のように真っ白な白米と言うわけにはゆかず、やや黒味がかった七分づき程度の御飯でした

 しかし食料不足は日を追って厳しくなり、その対策に各家庭では菜園作りを始めました。その農作物の殆どは、馬鈴薯と南瓜それに唐黍でした。戦後移転した村で共に暮らした、伯母のところではかなりの土地を所有していたので、その大半をそうした作物作り当てていました。当時は馬鈴薯や南瓜は主食代わりとして、とても重要な食品でした。

 戦後の伯母の家では、こうした半農半漁で生計を立てていましたから、当然私たち家族の生計もそれに預かっていた訳です。私たち兄弟は子どもながらにも、進んでこの半農半漁の作業を手伝っていました。
 農作業は伯母が主体であり、その手伝いとして私と弟それに、近くの町から来ていた親戚のお婆さんであり、また漁業の方は畑仕事の合え間に、伯父の指導のもとで、私と弟が小さな網(ポン網)を使って季節の魚を捕っていたのです。
 こうした主食代わりの農作物や魚類などは、私たちだけでなく、元住んでいた炭鉱町の親戚達にも分けられていました。大豆主流のそれも滞りがちな配給に困窮した親戚たちは、大豆加工食品を背にしてやって来て、帰りには芋や南瓜を背負って戻って行くのが常でした。
 伯母の家では馬鈴薯や南瓜の他に、甜菜(砂糖大根又の名はビート)も植えつけていました。私はここで初めて目にしたものでしたが、一見大き目の蕪のようなもので、この甜菜を伯母の家では甘味料として重宝していました。薄切りにしたのを大きな鍋で煮詰めて黒い水飴状にして、それを料理などに入れて使うのです。
このビートのことでは今でも良く記憶に残っているのが、作りたての芋餅をこの黒蜜状の汁に浸して食べることでした。そのほのかな甘さは、今なお懐かしい味覚として、舌に残っています。