昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

ポン網(想い出徒然日記より)

2005-09-10 20:18:39 | じゃこしか爺さんの想い出話
 当時私たちが取り扱って魚網の事を、ポン網と呼んでいましたが、それは正式な名前では無かったのかも知れません。しかし私(伯父貴と弟)たちはいつもそのように呼んでいました。もう60年も前のことですから、多少の記憶違いはあるかも知れません。その頃伯父貴と13歳の私と1歳下の弟の3人で、定置網を小型化した小さな網を毎日のように取り扱っていました。
 日に朝・昼・夕の3回、磯舟に乗り込んで、浜辺から100メートルほど離れた沖に仕掛けた網起こしをするのが日課でした。その辺一帯は遠浅になっていたから、網にかかる魚種は少なくしかも小さなものばかりで、その数も知れたものでした。しかし私たちは冬の間を除き、余程の時化の日以外は毎日ように網起こしに出かけました。

 時期によって獲れる魚の種類はそれぞれ違いましたが、鰈の種類が多く他にチカやキュウリ魚、それに旬の鮭鱒にボラなどで、時にはエビや毛蟹がかかりました。獲れた獲物は殆ど伯父の家と我が家の自家用賄いに当てられ、漁の多い時は隣近所や伯父伯母の親戚知人に回され、エビや毛蟹の場合は、私と弟の分け前として貰い、番屋の薪ストーブで焼いてお三時代わりとしたものです。
 
 伯父貴はかなりの年配でした。孫に倣って私たちも「オジジ」と呼び、色々な事を教わりました。仕事に関しては伯父甥に関係なく厳しくしていましたが、他の色々な事を教える際には、優しく分かり易く手に取るように教えてくれました。それは網の仕組みや各部位の呼び名から、網針(アバリ)を駆使しての網修理にも及びました。それは普通年端ゆかぬ者には少し無理な事だったのですが、伯父貴の教え方が適切だった所為で、余り時間を置かずに要領を会得して、伯父に替わって私たちの手に任せられるまでに熟練していました。
 
 その伯父貴のことで一番記憶に残っているのは、磯舟から海中に投げ出された時のことです。網起こしに出る場合は、磯舟の櫂は私か弟の役目で、伯父貴は艪を使って進む方向を定めるのが主でした。その夕方は、やや荒れ気味でしたが、翌日から時化が続きそうで、当分網起こしに出られそうにも無かったので少し無理して出かける事にして舟を出したのです。

 舟が網に近付き、伯父貴が艪に最後の一押しに力を加えた瞬間、艪が支点の突起から外れて仕舞い、勢い余って伯父貴の身体が宙を舞い海中に没しました。私はただ動転するばかりで、咄嗟の身動きも声さえ出せませんでした。しかし伯父貴の身体は間を置かず浮いて来て、舷に摑まっていました。
 
 老いたりとは云え、長年海で鍛えた伯父貴の身体は咄嗟の判断というか、または本能がそうさせたのかは全く分かりませんが、必死になって舷に手を伸ばしていたものと思われます。この事は伯父貴によって堅く口止めされました。それは伯母の心配も気懸りだったのでしょうが、私たちの漁が中止させられるのを一番恐れたからなのでしょう。
 それほどに当時の網起こし作業は3人のお気に入りで、何にも替え難い楽しい日課となっていました。

 この出来事は後年皆に知られることとなって、お互い笑って話されることにもなりましたが、弟との共通の思い出話として、その後折に触れて二人の中で語られたものです。
 
           ポン網の簡単な仕組み(略図)

    

初秋の夕焼け

2005-09-09 21:07:53 | 日々の雑記
 先日のことでした。月に一度の予約通院で、市内の公立病院へ出掛けました。私の予約時刻は患者が割合い少なくなる午後を選んでいましたから、その予約時刻の四時に合わせて家を出ました。
 ただ予約制といっても、その時間は正確でなくその日の患者数で、意外に早く済んだり、また気分が苛つくほど遅くなったりするのが普通でした。

 その日の患者数は普通で、一時間も待てば私の番が来るだろうと、軽く考えて持参の月刊誌読み始めました。ところが途中で急患が搬送されて来て、その応急処置に時間を取られしまい、帰宅がすっかり遅くなりました。そのお蔭と言うか帰宅途中の路上で、見事な夕焼けに出会いました。
 家を通り越して、近くに在る堤防道路まで車を進め、じっくりと眺めることにしました。それは正に初秋の夕焼けに相応しいもので、この地方ならではの見事なものでした、西の天空ばかりか、製紙工場の前を流れる川までを真っ赤に染め上げ、刻一刻と変化を見せて行きます。
 
 人は何故か夕焼けに惹かれるようで、それは私とて同じことで、何時しか故郷に思いを馳せ、深い郷愁を感じていました。

 いつも車に積んであるカメラを取り出して、後は夢中でシャッターを切って来たのが下の写真です。
             初秋の夕焼け



台風近し

2005-09-07 18:13:45 | 日々の雑記
 ハリーケンカトリーナにも匹敵するほどと云われた、14号大型台風は九州方面で猛威をふるい、各地に大きな被害をもたらしている。特に大分・宮崎両県の被害は痛ましい限りである。

 これは比較論としてのことなのだが、アメリカの場合はお国柄土地が広いから、風と水による被害が殆どのようだが、我が国の場合は土地が狭い所為で、山地の傾斜にも家が数多く建てられている。その結果としての土砂崩れなどが重り、人身の被害が多くなってしまう。またアメリカの場合はそれのみ留まらず、略奪強盗や人種差別更に銃社会よる被害の数もかなり多くなるらしい。このところが我が国日本と多いに異なるところであろう。

 さて14号台風は目下(7日午後4時時点)のところ、石川県輪島市北西の日本海にあって、毎時30Kmで北東に進んでいるという。このまま進めば今夜遅くから、明日の未明にかけて我が北海道を襲うのは必至である。
 昨年の18号台風の思えば、全く有りがた迷惑なことだが、こればかりは如何しようも無い事だ。 台風そのものは100パセント天災であるが、その後のことについては、人災と思われるふしが多く見受けられる。
行政は勿論のこと各個人も、これまでに齎された多くの被害などを、良き教訓して万全を期して欲しいものである。

朝から降り止まぬ雨を見つめ、10メートル前後の風で激しく揺れ動く庭木に目をやり、更に大雨洪水の警報と強風波浪の注意報を聞いて、内心大いに不安を抱きながらも所在無く、これまでに撮って来た写真の整理に時間を潰していた。

柳町公園の花
     ツリフネソウ

     同上

     ヒマワリ

     

ガマの穂とカマボコ

2005-09-05 22:20:40 | 日々の雑記
 昨日のウォーキングコ-スは久しぶりに、市の湿地寄り位置する大規模運動公園を選んで歩いて来た。各種の運動施設が完備されているうえに、子供用の遊具も多いから、休日ともなればいつもかなりの人出で賑わっている。

 とりあえず子ども広場の近くの駐車場に車を停めて、歩き始めたのだがその広場の隣り合わせの、ソフトボ-ルコ-トでの女子高生の試合に老妻が興味を持ったので暫し見る事にした。

 やがて程なくして試合が終ったので、あらためて歩き始めて前に来た時に見た、カルガモの親子が戯れていた小さな池に向かった。しかし其処は初秋の佇まいで静まりかえり、時折りトンボたちが水面を飛び交うばかりだった。
 ガッカリして引き返す途中、何気なく水路沿いの細道に出でみた。少し歩いた水際の葦の茂みに中に思い掛けなく「ガマの穂」を見つけた。
そのガマも穂は数こそ少なかったが、珍しかったので早速カメラに納めて来た。そしてガマの穂に連想して思い出したのが、カマボコの焼ちくわであった。
かなり前のことだが、町内会主催で行われた職場訪問に参加し、訪れた先が市内のカマボコ工場であった。その時の説明にガマの穂がカマボコ製造のきっかけとなったと、聞いた覚えが在り、それは確かな事です。

 ※ カマボコの由来は次のようである。

 伝説の人物、神宮皇后が三韓征伐に出かけ、生田(現在の神戸)で宿営したさえ、食べ飽きた魚を鉾(槍)の先で潰して遊び、偶々焚き火の傍に置いたところ良い匂いが立ち始めたので、試しに食べてみるととても旨かった。海辺だったので擂り潰された魚肉に塩水が加わったために旨味が増したのです。それに日持ちがするので携帯食としても最適でした。鉾についた魚肉の形が「ガマの穂」に似ていたところから、蒲の鉾が蒲鉾となったという事ですが、どうも後世の作り話の域を出ないようです。兵士の遊びからの偶然生まれた食べ物が、今にも続く水産食品のカマボコとなったのです。その後の文献によると平安時代の藤原道長やその後の豊臣親子、特に秀頼が好んで食したと云うことです。
また板付蒲鉾の板は腐敗を防止する効果が在って、携帯食に便利なところから、日本古来のインスタント食品と言えるでしょう。

人一倍食いしん坊だっただけに、思い出したのがカマボコだったなんて、我ながら恥ずかしく思った次第でした。

       卑しくもカマボコを思い出してしまった・・・「ガマの穂」



初秋の湿原道路で

2005-09-04 21:17:59 | 日々の雑記
 このところ珍しく良い天候が続いていたので、連日のようにウォーキングに出かけていた。日頃からウォーキング中毒を自認して手前、雨の日を除き、多少の風があっても平気で出掛けていたのだったが、結構暑いが日の歩きが続いた今朝辺りには、流石に足腰に相当の疲れが貯まっているのを感じた。
 今日は一日休養日にでも当てようかなと、ほんの一時は気弱な思いに駆られもしたのだが、テレビニュースで大型ハリケーンの被害模様に続き、これも大型台風の14号が本土に近付きつつあるのを知らされた。

 本土を逸れて呉れれば良いのだが、どうやら大陸からの高気圧の影響で、本土を襲う恐れが大きくなっているらしい。そうなれば天気の崩れは必定、そんなこともあって今日のウォーキング中止は思いなおした。やや出遅れたこともあって、急遽老妻に昼飯用にと握り飯を拵えさせた。昼食は歩き終えてから車内で食べるつもりである。

 何時もの駐車場に車を入れ、ブヨなどの対策に虫除けを手にして、湿原道路を歩き始めた。湿原の初秋の気配は以前にも増して色濃くなっていた。
 道路脇に広がる葦の穂はすっかり色付き、辺り一面が真っ赤にさえ見える。その葦原の中に、二種類の黄色い背の高い草花が目に付いた。一つは「セイダカアワダチソウ」と直ぐに分かったが、いま一つは分からなかった。見た目には花の色は白いだけで、形は「オオハナウド」とそっくりである。帰宅して図鑑やパソコンで調べたが遂に分からずじまいであった。

 他に歩く足元近くに幾つかの可憐な花々を見つけて、カメラに納めて来たが、やはりその名前は簡単には分からず、色々と苦労の末に、どうにかそれらしいのを見つけてブログに載せた次第です。

※ 追記
  昨夜遅くにおのブログを見た娘が電話で知らせて来ました。葉に特徴が有る「ハンゴンソウ」というのだそうです。訂正致します。
  
  セイダカアワダチソウ

  ハンゴンソウ=反魂草

  ハマフロウ叉はエゾフロウ

  赤く色付いた葦の穂

   ヒレハリソウ別名コンフリー




スズメの行水

2005-09-02 18:35:08 | 日々の雑記
 今年の夏は予想に反して暑い。例年ならば今年は暑い夏だと思われていても、お盆が過ぎると涼風が吹き始めて、時には朝晩ストーブが恋しくなることもあるのだが、今年はそんな日が二日ほどあったものの、暦が九月に代替わってからも、一向にそんな気配がなく日によっては25度を超える暑さである。

 実は昨日もそうだった。ウォーキングに出掛けるために近くの堤防道路を走っている時の事、前日の雨が水溜りとなって、まだ道路のところどころに残っていた。その水溜りに親子らしい5・6羽のスズメが戯れているのに気付いて車を停めて良く見ると、それは「カラスの行水」ならぬ、スズメの行水、水遊びをしていた。例年になく暑い夏であるから、水辺が恋しくなるのは、どうも人間様ばかりでは無いようである。
 予想外に暑い日が続けば、水鳥以外の鳥であっても水辺が恋しくなるのであろう。未だ見たことは無いのだが、これは昆虫類だって同じに違いない。

 車の窓を静かに開けて狙いを付けたのだが、相手は人一倍警戒心が強いスズメのことで、辺りを窺がい常に移動して、なかなか上手くカメラに納まらない。仕方なく遠くからシャッターを切った。それが下の写真である。