昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

私の好きな漁港

2005-09-18 20:33:02 | 日々の雑記
 私が季節ごとに好んで訪れている、その漁港は市の街外れの太平洋に面していた。街外れの小さな漁港とは云いながらも、道内の拠点都市の一つに属していたから、その折々の漁期に合わせて人や車の往来でかなり賑わっていた。
 しかし今回初秋の時季に合わせて来て見て先ず感じたのは、私が好きだった鄙びの風情よりも、寂れが色濃く漁港全体を覆っていたことだった。それに漁港の近辺の家並みからの生活音が少なく、漁港の周辺一帯がひっそり静まっていた。

 この漁港の地域は街外れと云っても、海底炭として名高い「T炭砿」の鉱区と隣接していたから、それに関連した施設や、その関係者の住宅用の高層アパートなども建ち並び、そのうえそれら目当ての飲食街も出来て、かなり人口密度の高い地域となっていた。その盛んな活気の勢いは、むしろ街中の斜陽の地域を大きく凌いでいたほどであった。
 しかしその炭砿も、我が国を襲ったエネルギー革命とやらの大波に呑み込まれ、他の多くの炭砿同様に何時しか斜陽に陥り、最後まで頑張っていたものの、先年遂に閉山と相成って仕舞った。この炭砿の閉山の影響は大きく、その市全体の人口を大きく減少させるに至り、遂に大台の20万を大きく割るまでになっていた。やはりそれはこの漁港の地域にも現れ、人が減り小学校さえもが他の地域に統合されて仕舞った。

 私がこの漁港に特に惹かれる訳は、戦後の12・3歳頃に数年過ごした事のある、樺太の片田舎の漁港に余りにも似通っていたからである。その頃は子どもながらに磯舟に乗り込んで網起こしを手伝ったり、浜の子らと生まれたままのスッポンポンの裸で、浜辺や海水に浸かって遊び回ったりしたのも、その漁港の傍であった。
その頃の海の匂いが身体全体に滲みこんだ所為か、年に一度は海を見ないと気が済まない状態になっていた。だから引き揚げたところが道央の炭鉱町であったから、年に一度は小樽や留萌周辺の海岸へ海水浴に出かけていた。
 現在道内でも有数の漁港でもありまた商業港である、地域の拠点都市に住んでいるのだが、日がなその海を目の前近くにしながらも、余り癒やされた思いに成れないで居る。それは海辺には当然ある筈の砂浜が無く、色も艶も無い堅いコンクリートで固められた、ただ物々しいばかりの建造物に埋めつくされているからである。
私の中に在る海は、幾つもの埠頭に分けられた巨大な港で無くて、絶えず打ち寄せる波の洗われている波打ち際の、しっとりとした砂浜の上を、一つ一つ足跡を残しながら進み振り返っては、また進んでは振り返る、あの子どもの頃に親しんだ海であり、更に小さな漁船がポンポンとエンジン音を立てながら、まっすぐ沖に向かって進んで行く漁港の姿なのである。

 しかし今はそんな事は中々に叶えられそうも無い。昔子ども等と膝まで浸かって遊んだ事のある、身近な浜辺の波打ち際は、波除けのブロックか岸壁で覆い尽くされて、僅かな釣り人たちに利用されているばかりである。後に残るのは、車や人を全く寄せ付けない、岩場と絶壁の崖などだけである。

 もともと賑やかで活気のある漁港を望んで来たわけでも無いから、作業車らしき車と乗用車が数台停められている他は、全く人っ気が無く静まりかえった漁港の佇まいもまた乙なものと、漁港一帯が見下ろせる高台に車を進めた。

 ちょうど午後の網起こしにでも向かうのか、小型の漁船がただ1艘岸壁を離れて漁港を出ようとしていた。かなり離れていたから船のエンジン音は聞こえて来なかったが、真っ青な水を切り白い航跡を残して進む船を、やや暫らく眺めていた。

私の好きな街外れの漁港