昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

ガマの穂とカマボコ

2005-09-05 22:20:40 | 日々の雑記
 昨日のウォーキングコ-スは久しぶりに、市の湿地寄り位置する大規模運動公園を選んで歩いて来た。各種の運動施設が完備されているうえに、子供用の遊具も多いから、休日ともなればいつもかなりの人出で賑わっている。

 とりあえず子ども広場の近くの駐車場に車を停めて、歩き始めたのだがその広場の隣り合わせの、ソフトボ-ルコ-トでの女子高生の試合に老妻が興味を持ったので暫し見る事にした。

 やがて程なくして試合が終ったので、あらためて歩き始めて前に来た時に見た、カルガモの親子が戯れていた小さな池に向かった。しかし其処は初秋の佇まいで静まりかえり、時折りトンボたちが水面を飛び交うばかりだった。
 ガッカリして引き返す途中、何気なく水路沿いの細道に出でみた。少し歩いた水際の葦の茂みに中に思い掛けなく「ガマの穂」を見つけた。
そのガマも穂は数こそ少なかったが、珍しかったので早速カメラに納めて来た。そしてガマの穂に連想して思い出したのが、カマボコの焼ちくわであった。
かなり前のことだが、町内会主催で行われた職場訪問に参加し、訪れた先が市内のカマボコ工場であった。その時の説明にガマの穂がカマボコ製造のきっかけとなったと、聞いた覚えが在り、それは確かな事です。

 ※ カマボコの由来は次のようである。

 伝説の人物、神宮皇后が三韓征伐に出かけ、生田(現在の神戸)で宿営したさえ、食べ飽きた魚を鉾(槍)の先で潰して遊び、偶々焚き火の傍に置いたところ良い匂いが立ち始めたので、試しに食べてみるととても旨かった。海辺だったので擂り潰された魚肉に塩水が加わったために旨味が増したのです。それに日持ちがするので携帯食としても最適でした。鉾についた魚肉の形が「ガマの穂」に似ていたところから、蒲の鉾が蒲鉾となったという事ですが、どうも後世の作り話の域を出ないようです。兵士の遊びからの偶然生まれた食べ物が、今にも続く水産食品のカマボコとなったのです。その後の文献によると平安時代の藤原道長やその後の豊臣親子、特に秀頼が好んで食したと云うことです。
また板付蒲鉾の板は腐敗を防止する効果が在って、携帯食に便利なところから、日本古来のインスタント食品と言えるでしょう。

人一倍食いしん坊だっただけに、思い出したのがカマボコだったなんて、我ながら恥ずかしく思った次第でした。

       卑しくもカマボコを思い出してしまった・・・「ガマの穂」