昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

秋空に想う

2005-09-28 20:57:06 | 日々の雑記
 朝目覚めて直ぐに大空を見上げる癖がある。
それは限られた窓枠のみの空だから、大空と呼んで良いのかどうかは別として、四尺四方にも満たない窓枠から見られる、たったそれだけの空模様に、気持ちが左右されてしまう事が多い。
 その広くも無い窓に広がる空の青さに、昂揚している自分を感じ、そこに広がる曇り空に、どっと気落ちしている自分を発見する。
 また何かの用事があって、早々と起きた日の朝など、思い掛けなく雨が窓を濡らしているのを見て、何故か裏切られた思いになりガッカリしてしまう。

 空は宇宙の初めから天に在って、決して裏切りなどはしない。ただ往々にして人を裏切るのは、自然の成り行きを支配したと錯覚している、役所の関係者のみである。その裏切りの良い例が、気象情報で出される天気予報です

 春夏秋冬の区別無く空は、いつでも其処に在るのだが、その季節によってそれぞれ趣むきが違って来る。
先ず春の空だが、天地の見境も分からぬほどに、ぼうっと霞んで見える。夏の青空は、朝の内からその日の焦熱を予感される。冬の日の青空は、その寒気を超えた、凛とした清々しさが良い。私が一番に好きなのが秋の空である。夏の水分が霧消して、澄み切った大気が秋の空を更に大きくしてくれる。それが俗に言う「天高くして馬肥ゆる秋」でもある。中でも黄昏時の空は最高である。
 
しかし青空が良いと云っても、単に真っ青な空が在れば、それで良いと言うのではない。非の打ちどころの無いように晴れ上がり、雲一つ無い青空もそれはそれで良いのだが、それだけでは何故か味が無くて、ただ寂しさだけが残ってしまう。
 やはり秋の空には、「変わりやすい」との喩えがあるように、例えば刷毛で刷いたような薄雲が、また綿を千切ったようなふんわりとした雲が在ってこそ、秋の空に相応しいと云えるのでは無かろうか。

 以上が全く何の根拠も無いままに、私が常日頃勝って気侭に想像している、空への想いの一端である。だからこの私の考えを、人さまには押し付けるつもりはさらさらに無く、ただこのような人間が居るのを知って欲しいだけである。
             綿みたいな雲が浮かんでいる空

             ただ真っ青で何も無い空

             ヘリがとても羨ましい