昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

忘れえぬ人々から・・・船頭

2005-01-13 19:32:22 | じゃこしか爺さんの想い出話
 終戦後一年目の樺太での事です。当時はソ連軍の統治下にあったわけですから、当然物心共に不自由な生活を強いられる毎日でした。
 当時私は国民学校の高等科一年、今で云えば中学一年生です。そんな私達学生にソ連軍は鰊場での使役を命じて来たのです。せめて高等科を終了した身であれば、ともかく未だ13・4歳の子どもに対する徴用だけに、学校側でもかなり問題にしたようですが、そこは敗戦国民の悲しさとうてい占領軍には適いません、遂には学校側でも折れるしかなくせめて使役期間の短縮を求めて、ソ連軍の要求を受け入れたのです。

 例え半月間と云う短い期間であっても、親元を離れ生活するのは初めての経験だったが、クラスの仲間が一緒と言う事もあってか、たいした不安感や淋しさなどは少しも覚えず、ソ連軍の幌付き輸送トラックの乗せられても、不安などは一切無く又苦痛とも思わず、わいわいと騒いでいた。途中からは鉄道に乗り換えた。炭砿の石炭運搬用の機関車しか知らなかっただけに、初めて目にした本格的な機関車と客車のただただ驚き、まるで修学旅行も斯く有りなんばかりのはしゃぎようであった。明日から強いられるであろう過酷な使役に対する心配など露ほども見られなかった。

 翌日は早々に白み始めた頃に叩き起され、番屋前に並ばされた。私たちだけでなくやはり何処かからか徴用されて来た一般人も居た。使役に関する簡単な説明があり、更にソ連人監督官の他に日本人のリーダーが紹介された。如何にも船頭風のガッチリとした50歳代の人だった。太い毛糸で編まれた黒いとっくりセーター印象的で、その上日焼けした顔に潮風に因って深く刻み込まれた皺が思慮深く頼り甲斐があった。私たちは彼を「船頭」と呼んだ。

 コウリャン(もとは家畜の飼料で戦後は米を補う赤色の穀物)交じりの朝食(初めは色具合から赤飯かと思ったのだが)を終えて早々に、鰊加工場に連れて行かれた。桟橋からは線路が直接工場に伸びていて、桟橋横付けの漁船から鰊がトロッコに積み込まれる。そのトロッコを工場まで押して行くのが私達の仕事だった。

 しかし鰊漁は時化が続いて思うように行かなかった。ノルマ達成の焦りから無理して出した魚網は何度か流され、その責任は全て船頭のせいにされた。
 そんな日が続くある朝の事だった。やはりその朝も時化ていて、素人目にも網入れはとうてい無理な状態だったが、上層部を恐れる監督官は「鰊・・・鰊・早く舟を出して!」と詰め寄ったが、船頭は一瞥するだけでじっと前方の海を見詰めるだけで取り合わなかった。監督官も意地になったようで、腰のピストルに手をやり怒鳴り捲くったが、船頭は唯一声「今は駄目だ!網を流して仕舞うだけだ。風が治まったら出す!」怒鳴り返した。
その堂々たる態度と荒波さえも圧する胴間声に監督官はその後一声も発しなかった。
 ピストルの脅しに一歩も退く事無く、己の意見を通した船頭の姿が私達の胸深くに焼き付いた。その後の鰊漁は無事に終わり、私たちの仕事は予定の期間で終わった。

 帰省の時駅のホームにはあの船頭の姿があった。「ご苦労さん・・・元気でなあ!」その時の船頭の優しい声と姿は今もって忘れられないで居る。