昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

我が母(追憶より)

2004-09-25 12:50:09 | じゃこしか爺さんの想い出話
              ♪海は荒海向うは佐渡よ・・

 この歌を耳にすると何故か母を想い出す。今日は母の57回目の祥月命日である。若し生きているとすれば、明治36年生まれだから103歳に成りかなり高齢である。しかし実際には、3男9女の兄弟姉妹の末っ子でありながら、誰よりも早く45才という若さで死亡している。

 唱歌「砂山」は母の愛唱歌で生前良く口ずさんでいた。子守歌などの記憶は殆ど残っていないが、
この歌だけは小学校に入学する前から覚えていた。

 我が家は6男4女の子沢山、まさに「律義者の子沢山」のことわざを地で行くような律儀で働き者だった。中でも洗濯好きで、とかく遊び盛りで汚れ物は毎日山のようになる。それを一日も欠かさずに洗濯に励んでいた。だから近所では「カラスの鳴かない日はあっても、Kさんの家では洗濯物の干してない日は無い」と評判になるほどの働き者だった。それは病気で半身不随になってからも同じで、洗濯ばかりでなく縫い物や繕い物にでも左手だけで器用にこなしていた。
 私達きょうだいは上物の衣服など着た覚えは余り無いが、破れたり汚れたりした物を着た記憶も無い。何時もこざっぱりとした物を身に着けていた。

 母は42歳の時脳卒中で倒れたのだが、その時も意識が混濁した中で「小さな子等(末妹が1歳未満)を残して今は死ねない」とうわ言のように言い続けて、普通ならば死に繋がって当然とまで云われた重篤の病いから半身不随という後遺症を負いながら生還した。また終戦直前病身のため避難出来ず一人で家を守り、更に父の無き後(ソ連兵上陸の際行方不明)も戦後の混乱の最中も一家の支えとなって、まだ幼かった私等を守って来たそんな気丈な母だったが・・。

 函館の引揚者収容所で、思いもよらず出征後生死不明の長兄との再会から、心の緊張の糸がプッツリと切れて仕舞ったのか、その後はとかく床に就きがちになり、長兄との生活を一緒に始めてその三月後に生命を終えた。時に昭和22年9月25日のことで、享年45才であった。