昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

ログハウス(追憶より)

2004-09-21 19:28:27 | じゃこしか爺さんの想い出話
 私が生まれた家のことであるが、今流に云うならばログハウスと呼ぶべき物なのだろうが、決してそんな洒落たものでは無く、その昔ロシア人が住んでいたと云うもので、山から伐り出し皮を剥いだだけの丸太を積み上げたという、見るからに粗末なしろものだった。私が生まれた場所そのものは、樺太西海岸で国境から数百キロ南に位置する半農半漁の寒村である。家は村と呼ぶのも憚れるような小さい集落の外れにあった。               

 私がその家を初めて見たのは終戦直後の事で12・3歳の頃だった。当時は戦後のことで終戦前まであった定期バスは既に無く、また現在のように自家用車なんかは夢の中でも見られない時代だったから、街から街への移動手段はもっぱら徒歩に限られていた。それは子どもとて同じことで、6里(24キロ)ほどの道のりならば子どもだけで普通に往来していた。

 戦後私の家族は、父は港の防衛に招集されたまま行方不明、長兄は出征で不在だった。病身(半身不随)の母と姉と弟妹だけで、直ぐ上の兄は離れた町の教師をしていた。そんな訳で何かこと有るごとに、二つ離れた町の伯母(母方)のところを訪ねていた。

 その家が私の生まれた家であるのを知ったのは、伯母の家の従兄が教えて呉れたのである。其処はちょうど小山の麓で、家の周り一帯には笹竹がびっしりと生い茂っていた。丸太を簡単に組み合わせた唯頑丈さだけが取り得のものだった。約20坪(66平米)の横長の家には小さな窓が一つ在るのみで、他には肝心の煙り出し用の煙突の所在さえ分からなかった。こうでもしなければ昔は獰猛な熊から身を守れなかったに違いない。

 今は無人で荒れ放題だったが、父の転職の際に一時凌ぎに借りたらしく、その後私の生後約半年くらいで離れたようだが、そんな荒削りの丸太作りの粗末な家でも、今流に呼べば確かな「ログハウス」である。

 今となっては其処はロシア領で行くことも事も出来なくなったが、湖などの傍の見るからに洒落た別荘のログハウスを目にする都度、あの荒れ果てた私が生まれたと云われる丸太造りの家を、ふと想い出すことがある。