今日六日は五十九回めの「広島原爆の日」で九日は「長崎原爆の日」が巡ってきます。そして十五日は「終戦記念日」へと続きます。こうして考えてみると八月という月はとかく想い出深い月と言えるでしょう。ちなみに私の誕生月でもあるからでしょうか。
それは別にして想い出多い八月を思い起こして、その中でも特に今なお心に残る想い出を三つ四つばかり今日から記して行きたいと思います。
想い出(Ⅰ)・・援 農
戦争末期は若い人や壮年だけでなく、中にはこんな人までもと思われるほどの年配者も健康でさえあれば招集されていた。そんな中での農家の人手不足は深刻だった。
そうなって来ると「一億総突撃」の時代だったから、当然の如くに子ども達の労働力にも目を付けられ徴用されるようになった。
当時国民学校の高等科一年生(12歳)に成ったばかりの私達も、かなり離れた隣町の農家の手伝いに行かされた。往復約三時間の道程は全部徒歩である。学校と街筋を遠く離れれば普通の足並みで唱歌を歌いながらややノンビリ進むが、一旦街に入り学校に近くなれば突然「歩調取れ!」の号令のもとに、兵隊さん宜しく腕を大きく振り腿を高く上げての行進する。農作業の後の身体に応え子ども心にも大変に辛かった。
援農と云っても十二歳に成るか成らずの子どもに出来る農作業は数少なかった筈で、当時私たちがやらされたのは「蕪」の苗植えであった。北国の「樺太」でも成長する特別の種類であったのだろう思われる。その名は約六十年も前のことで定かでないが「ルパタカ又は仙台蕪」と呼んでいた記憶がある。成長すると赤ん坊の頭ほどに成るらしいが、苗はこぶし程であった。食料不足で四・六時中腹を空かせていた私達には格好の獲物で、一人が半分ほど食べてから植えると後の皆はそれに習った。当然悪いとは知りながら私もそうした。
それが無事に成長したかどうかは判らない、その後間もなく終戦となったから・・。
それは別にして想い出多い八月を思い起こして、その中でも特に今なお心に残る想い出を三つ四つばかり今日から記して行きたいと思います。
想い出(Ⅰ)・・援 農
戦争末期は若い人や壮年だけでなく、中にはこんな人までもと思われるほどの年配者も健康でさえあれば招集されていた。そんな中での農家の人手不足は深刻だった。
そうなって来ると「一億総突撃」の時代だったから、当然の如くに子ども達の労働力にも目を付けられ徴用されるようになった。
当時国民学校の高等科一年生(12歳)に成ったばかりの私達も、かなり離れた隣町の農家の手伝いに行かされた。往復約三時間の道程は全部徒歩である。学校と街筋を遠く離れれば普通の足並みで唱歌を歌いながらややノンビリ進むが、一旦街に入り学校に近くなれば突然「歩調取れ!」の号令のもとに、兵隊さん宜しく腕を大きく振り腿を高く上げての行進する。農作業の後の身体に応え子ども心にも大変に辛かった。
援農と云っても十二歳に成るか成らずの子どもに出来る農作業は数少なかった筈で、当時私たちがやらされたのは「蕪」の苗植えであった。北国の「樺太」でも成長する特別の種類であったのだろう思われる。その名は約六十年も前のことで定かでないが「ルパタカ又は仙台蕪」と呼んでいた記憶がある。成長すると赤ん坊の頭ほどに成るらしいが、苗はこぶし程であった。食料不足で四・六時中腹を空かせていた私達には格好の獲物で、一人が半分ほど食べてから植えると後の皆はそれに習った。当然悪いとは知りながら私もそうした。
それが無事に成長したかどうかは判らない、その後間もなく終戦となったから・・。