昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

八月の想い出(Ⅲ) 避 難

2004-08-09 14:06:31 | じゃこしか爺さんの想い出話
 昭和20年8月9日今から59年前の今日の事、6日の広島に続いて長崎にも原爆が投下され多くの方がその犠牲になっております。全くその同じ日に日本の北の方では、ソ連軍がそれまでの日本との不可侵条約を一方的に破り、北緯50度の樺太国境線を突如越境し侵攻を開始した。この日から約45万人の樺太島民の
苦難が始まったと云っても過言ではない。

 日頃は至って穏やかな炭砿街の住民に地域を統括する軍の司令部から、緊急に避難(疎開)命令が出されたのもそれから間も無くであった。その対象は主に女性と子ども等小学生6年迄であり、私達高等科の生徒は一部の大人たちと共に街の警戒の為に残った。

 日増しにソ連軍の攻撃が激しさを増して来た。何しろ8分もかからずに沿海州からソ連機が飛んで来て空襲していた。いよいよソ連軍が上陸したとの知らせで、街を警戒していた私達にも避難命令が出た。後で判った事だがそれは日本が「無条件降伏」した翌日である。何故か街中の家々の唯一の情報入手手段であるラジオは憲兵隊の手で壊されていた。だからその後も暫らくの間終戦の事は知らずに逃げ回っていた。

 いよいよソ連軍街に近付いているとの情報で、街から山奥に避難する際に実際にソ連の戦闘機の機銃を受けた。私達が隊列を組んで進んでいる時だった、爆音に気付いて空を見上げた時にはもう既に頭の上で、急降下して来たと思った瞬間機銃掃射を受けていた。真っ昼間でしかも身を隠す物一つ無い道路上である。私
達はまさに「蜘蛛の子を散らす」状態で、最寄りの馬鈴薯畑に転がり込んで難を逃れた。誰一人として負傷する者がいなかったのは、相手は子どもと見ての彼等の単なる脅かしであったのかも知れない。

 更に後で人伝に聞かされた事だが、避難中の夜何処かの学校の体育館に隠れ潜んでいた時、近付くソ連兵に知られるからと、泣き続ける乳児の口を親が泣きながら手で塞いで命を絶ったという。又西から東海岸へ逃げ延びようとしていた避難民の一団の中で、峠越えの足手まといになる乳幼児を置き去りにしたとも聞いた。北海道留萌沖での三船(小笠原丸・第二新興丸・泰東丸)同時殉難事件の真相は、ソ連海軍の潜水艦に撃沈された事が判っている。日本が無条件降伏し武装解除した一週間後の出来事である。

 今の平和の有り難さををしみじみと噛みしめながら、まだ知られざる悲惨な出来事が数多く有ったのだろうと思うと、今更ながら心が氷付いて来るのを覚えます。