昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

終戦の日

2004-08-15 19:31:09 | じゃこしか爺さんの想い出話
今日は59回目の終戦記念日なのだが、父の死亡の日として忘れられない日でもある。その頃私達は樺太に住んでいた。この日を含め数日間は戦争の終った事も知らずに、ソ連軍に追われて山中を逃げ回っていた。それは港の防衛の為、民間の防衛隊員として召集された父も同じであった。しかし父の場合はその日、終戦の日を境にして行方不明で、それは59年経った今でも変わらず音信普通のままである。それ以来終戦記念日の今日15日は、父の命日と定め今に至っている。そんな訳で菩提寺の納骨堂に納めている骨箱には、遺骨の一欠けらさえも無く空っぽのままである。

 13日の朝普段の年ならば迎え盆、お寺参りなどで何かと忙しい筈なのだが、ソ連の突然の参戦と本島への上陸がいよいよ現実のものとなり、老若男女への避難命令が緊急発令されていた。我が家ではもう既に港の防衛に父は民間防衛隊員としての召集を受けていた。母は半身不随の病身で杖を使って歩くのがやっとで、避難など到底無理な状態だった。それに私も少年防衛隊の命令で町内の警戒に当たる事になっており、取あえず今直ぐ避難するのは姉と弟に妹である。父は出発に先立ち只一人家に残る母に、「マキリ」(アイヌの短刀)を手渡し、私達にも色々と注意を与えて出かけて行った。それが父の最期の姿に成ろうとは、その時点では思いもよらなかった。

 当時その「マキリ」の意味は判らなかったが、後になって恐らく病身とは云え、決して生きて辱めを受けるなと言う父の決意だったのだろうと思った。

 戦争が終ったら当然に母のもとへ帰る筈の父は、私達は早くにそうしているものと思って居たのだが・・家に戻ってみて未だに帰らぬ父の事を知り呆然とした。

 樺太有数の炭砿の石炭積み出し港の防衛は殊の外大事で、それ故に民間の防衛隊も組織され軍との連携で

の港湾防衛であったのだろうが、圧倒的に軍事力に優るソ連軍にはひとたまりも無かった様である。
 やがて撤退命令が出て、防衛隊員たちは一斉に炭砿に逃げ戻りそぞれの家族と一緒になったのだが、何故か父だけは戻って来なかった。炭砿と港の間には石炭運搬専用の鉄道や道路、その他に近道となる間道も在った。せいぜい10キロほどの距離で、父はそのどの道にも精通していた筈で、殆どの隊員が無事に戻っているのだから、父がその道で迷うなんて事はとても信じられない事だった。

 しかし現実には父は帰らなかった。恐らく運悪く流れ弾にでも当たったのかも知れない。その後間も無く赴任地から戻った兄を先頭に、せめて遺体をと捜し歩いた。時には道路沿いの十字架の下まで掘り起こして捜したが全て徒労に終った。思えば六男四女の子に恵まれながら、「死に目」にも会えず又「死に水」も貰えず・・思えば哀れな最後である。

 今日59回目の終戦記念日を迎えた訳だが、その戦争体験者の世代は2割を切り「8・15」が何を意味するのか、又どんな日なのか判らない者が多く全く平和?で有り難い世の中である。私にとって今後世の中がどう変わろうと、8月15日という日は生涯忘れられない日である。