昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

八月の想い出(Ⅳ)避難の末の白旗

2004-08-10 14:07:55 | じゃこしか爺さんの想い出話
ソ連戦闘機に追い回されながらも私達はやっとの思いで町外れの炭砿の坑口に辿り着く事が出来た。
 その坑道は早くから空襲から逃れるために用意されいた避難場所で、私達も最初から目指していた避難場所もその坑道だった。其処にはもう既に500人ほどの人が避難していた。山をくり貫いた炭砿の坑道ですから空からの攻撃を避けるには最適ですが、直接坑口から攻め込まれては幾ら頑丈に出来てると云っても一たまりも有りません。結局その夜は其処で非常袋の「炒り大豆」を齧りながら過ごした。例え身内の者が傍に居なくとも大勢の中に居るだけで気が安らぎぐっすり寝むる事が出来た。
 後日聞いた話だが、ソ連軍の上陸が後一日早かったらこの坑道は爆破されていたと言う。生き延びて殺戮という悲惨な目に遭うよりも・・いっその事玉砕を選んだのかも知れない・・軍司令部は?

 
 翌朝は未だ暗い内に仲間と共に多くの人たちに混じって出発した。目指す先は山脈を越えての東海岸である。其処まで行けば鉄道が通っているから避難の道も多く最終的には北海道へ渡る手立ても有り、うまく行けば先に避難した肉親(姉・妹・弟)にも出会えるかも・・。

 しかし実際には夜が明けて明るくなるに連れてソ連機が何度と無くやって来る、その度に林の中に潜り込んだりするから思うようには進まなかった。結局その晩は野宿となり大人を真似て草などを敷いた寝床を造った。ソ連機は未だ爆撃を続けているのか時おり遠くからの爆発音が聞こえて来た。眠れぬ一夜を過ごし翌朝は早々と大人たちに従いて出発した。

 そんな落ち着かぬ避難を二日ほど続け峠近くの集落に差し掛かった時、大きな避難民の一団と出会った。
はからずもその中に私の姉達が居た。何でもその一団は峠を目の前にして峠越えを決め兼ねていたらしい。
 もうどっちみち北海道に渡るには間に合わないだろうし、この先何処へ行こうとソ連兵に捕らわれるのは判りきった事だし・・

 結局私達きょうだいは同じ町から来た人たちと共に家に戻る事にした。東海岸に向うのと大違いでのんびりとしたものだった。やはり二日ほどかけて戻った。
 やがて町に近付くにつれて国道添いのあちこちに真新しい白木の十字架が立てられていた。恐らく此の辺りでもソ連兵との銃撃戦あったのだろう。ソ連軍の関係者が身元の判らぬ人の遺体を処理したに違いない。

 町を見下せる高台に差し掛かった時だった、リーダー格の人が「赤い布か白い布がそれを掲げて行こう」と言い出した。しかしそんなこと事態が無理なで、白い物と云いばハンカチか着ているシャツくらいな物である。結局ハンカチや白い下着を小枝に結んで町へと入って行った。

 其処に待ち構えていたのはやはりソ連軍の憲兵と通訳と思われる一団だった。ソ連の憲兵よりもそれにおもねる嫌な目付きの通訳等(異邦人)から受けた身体検査に、子ども心にも今までに無い深い屈辱感を味じわされた。自分の町に帰るのに自分の家に戻るだけなのに、何で白旗を掲げ更に身体検査まで受けねばならないのか・・その後暫らくはその屈辱感に苛まされていた。