逆風に抗して Against the wind,♪ we are running against the wind.♪
ここではないどこかへ。モモンガーの旅
2018年に横浜から信州にUターン
自転車と日々の生活を
綴ります。
 



この所の気温の上がり下がりの激しさについて行けず、外遊びに足が向かない。その上、ISP/プロバイダー変更などで、ITシステムの場所替えなどをやっていたら、机の上が大混乱。まあ元から適当に継ぎはぎしただけ。プリンターの片側は段ボール箱だし、PCはDVDとHDDの上に下駄を履かせて、26インチTVと同じ高さになるようにして使っていたのだが、、、、、


いくら何でもこれはまずかろうと、PCの台を作ることにした。左のプリンターは机上より74mm高く、26インチTVの底辺は70mm高い。TVのスタンドを4mm高くして、74mm高さのPC台を製作。(と言っても12mm合板に足を付けただけ)


それでも、寸法通りに出来上がって、ぴったしカンカン。



PCの下に気兼ねなくDVDやHDD他を収納でき、机の上も綺麗に片付いた。



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30年来使ってきたMade in Japan のハサミの柄を折ってしまった。百均に行けば、ほぼ同じようなハサミを買えるのだろうが、修理を楽しむ。まずは瞬間接着剤で折れた柄を元の位置に戻どして接着する。ただ、これでは使ったら一発でまた折れてしまう。


ミニルーターに1mmのドリルを取付け、折れた部分の両側に縫い付け用のΦ1mmの穴を開ける。
(100均で買ったルーター用のΦ1mmドリル、高速回転で綺麗に小さな穴が開く優れもの)



ルーターで開けた穴をピンドリルで整形し、そこに0.5mmのエナメル線を通して接着部を縫い合わせる。


これで接合部に力が掛かっても、再度折れる心配は少なくなる。


でも、このままだとブサイクだし、エナメル線が伸びてまた割れてしまうこともありうるので、さらに強度上げる為、縫い付けた部分にUV樹脂を塗り付け、太陽光で硬化させる。


30年前のMade in Japan のハサミ、直った!。



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信州に引っ越してきた時、ドミナントなNTTをきらって、ビグローブ光/AUひかりを契約した。NTTより1~2千円やすい4千円チョイ。3年契約が終わった時点で、割引継続しないなら、ISP変更も、、とネゴしたら、値引きを継続してくれたのが2年前。5年経った所で、もう一回ネゴするも、値引きなしの正規料金とのこと、仕方が無いのでプロバイダー/ISPをコミュファ光に変更することにした。
所が、手続きや違約金、工事費が大変。まあ予想した事だが、、、、そう言った経費はコミュファがキャッシュバックしてくれるハズなのだが、、、、

ISPの変更に伴って、ONUとルーター/Wifi親機の設置場所を壁際からリビングに移動。コミュファの親機が親ルーター/DHPCになるので、今までルーター/Wifi親機として使っていたものを有線子機/Wifi中継器/AP化する為に設定変更する。

....などで、ブログをサボっていた。従来のルーターを殺し、AP化の為の設定を念の為メモしておく。下図のAがコミュファ、BがI/OデータとBUFFALOのAPなので、合計で数十台のWifiを収容できるはず。




I/Oデータ WN-DX1167Rは ルーター/APの位置にスイッチ


BuffaloのWSR2533DHPLはAPとAutoの位置にスイッチを合わせて、


これで、WifiとインターネットアクセスはOKだが、ルーターとしての機能は停止/DHPCとしてIPアドレスを割り当てない設定になったので、子機になるはず。

 



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11/2に皮を剥き、柿スダレにした干し柿、20日間経ち、だいぶ乾いてきた。


もう少し乾かしたいのもあるが、程よく糖分が白く浮き上がってきたものも有るので、朝一で取り入れ、箱にしまった。


それから、まだ木に残った柿で、色付きの良いものを齧ってみたら、2つに1つは甘くなっていた。柿の木も30年以上経ち成熟したのと、今年根の周りに落葉堆肥を漉き込んだので、渋柿から甘柿に転換しつつあるのかもしれない。

午後、チューリップの球根と福寿草のプランターを日当たりの良い場所に設置。


沈丁花の株に寒囲いのビニール保護カバーを付ける。


シャクナゲは寒さに強いはずだが、日当たりがあまり良くないので、ここにもカバー。


今年植えたネコヤナギとカエデにもビニールカバー。



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先日初雪が降ったので、少し早いが暖かい11/19にスタッドレスタイヤに交換することにした。


ゴミを吹き飛ばし、取付面、ボルトを灯油とパーツクリーナーで洗って、


1時間ほどで、順調に4本のタイヤを交換した。せっかくなので、取り外したタイヤを綺麗にしようと、高圧洗浄機のノズルを普段使っている洗車用からサイクロンノズルに交換して洗浄しようとしたら、水の勢いが弱く、水流が旋回しない。ノズル先端を分解したら、Oリングが切れているよ。幸い手持ちのOリングセットに該当サイズあり、良かった。


ついでに今年最後の洗車もやってしまう。冬になって、高圧洗浄機の中に残った水が凍結、破損するのを避ける為、高圧洗浄機をエアーパージして、倉庫に保管。(寒い地方では水抜きを怠り、高圧洗浄機を壊す人が多いんだよね)


使った工具などを元の場所に戻すなどしていたら、ガレージの隅に柿の実発見。柿の木から30mは離れているのに、こんな石の間になぜ?
疑問氷解、よく見ると2つの牙の跡がある。冬に向けて、ネズミより大きな小動物が柿をここに隠しておいたようだ。



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インクが出なくなって放置されていたブラザーの電話/Fax/スキャナー/プリンター複合機2台を貰って来た。



まずは古いMFC-J705Dから修理。古い割りにはあまり使用頻度が高くなかったと見え、内部は比較的綺麗だ。インク詰りだろうから、まずは清掃用のカートリッジの製作。水とメチルアルコールを2:1程度に混ぜ


空のカートリッジに注射器で10cc注入。


30回ほどプリンターヘッドのクリーニングを繰り返したら、見事に”直った!”。目出度し、めでたし、メデタシ。これで、10年前に買った、インク代より安い¥3,980のHPのプリンターの予備機ができたので年賀状印刷も安心。
MFC-J705DはUSB接続、スキャナーは1枚毎の製品なので、できればWifi接続、マルチスキャナーのMFC-J960DNも復活させたい。こちらはかなり使い込んだようで、そこここに紙の切れ端が挟まっていて、紙送りができない。徹底的に紙の通り道を清掃し、紙送りは出来るようになった。所がヘッドを動かしてみると、右側のヘッド乾燥防止部分にインクをしっかり吸い込んだ紙の切れ端が沢山挟まっている。


何回もヘッドクリーニングをやったのだろう、左側の廃インク受けにはベットリとインクが付いている。


清掃用カートリッジを付け、ヘッドクリーニングを繰り返すも、シアンのみインクが僅か出てくるが、他の3色は出てこない。プリンターヘッドの下に布を敷き、アルコール水を浸して、1晩置きクリーニングを試みるが、それでもインクが出てこない。
こちらは壊すのを覚悟で、時間の有る時にプリンターヘッドの分解、清掃にトライしてみよう。



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我家と関連する「芥川の庭と洗馬宿」研究時のメモやデーターのデジタル保管箱として、今後時々、本ブログを使っていくつもり。
先ずは洗馬宿脇本陣を舞台とした芥川龍之介の1922年の作品「庭」の保管から

「庭」の初出は「中央公論」1922(大正11)年7月号、単行本では「春服」春陽堂、1923(大正12)年5月で、理由はまだ解明していないが、上記初出と後日の収集本で冒頭の文が異なっている。
------------ 中央公論1922/1 および「春服」1923/5より ----


------------ 青空文庫より ---------------------------------------
青空文庫は出典を明らかにした上で、「ファイルは、有償・無償であるかを問わず、自由に複製・再配布・共有することができます。」であるので、以下に全文を掲載しておく。
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     上

 それはこの宿しゆくの本陣に当る、中村と云ふ旧家の庭だつた。
 庭は御維新後十年ばかりの間は、どうにか旧態を保つてゐた。瓢箪へうたんなりの池も澄んでゐれば、築山つきやまの松の枝もしだれてゐた。栖鶴軒せいかくけん洗心亭せんしんてい、――さう云ふ四阿あづまやも残つてゐた。池のきはまる裏山の崖には、白々しろじろと滝も落ち続けてゐた。かずみや御下向ごげかうの時、名を賜はつたと云ふ石燈籠も、やはり年々に拡がり勝ちな山吹の中に立つてゐた。しかしその何処かにある荒廃の感じは隠せなかつた。殊に春さき、――庭の内外うちそとの木々の梢に、一度に若芽のえ立つ頃には、この明媚めいびな人工の景色の背後に、何か人間を不安にする、野蛮な力の迫つて来た事が、一層露骨に感ぜられるのだつた。
 中村家の隠居、――伝法肌でんぽふはだの老人は、その庭に面した母屋おもや炬燵こたつに、頭瘡づさうを病んだ老妻と、碁を打つたり花合せをしたり、屈託のない日を暮してゐた。それでも時々は立て続けに、五六番老妻に勝ち越されると、むきになつて怒り出す事もあつた。家督を継いだ長男は、従兄妹いとこ同志の新妻と、廊下続きになつてゐる、手狭い離れに住んでゐた。長男は表徳へうとく文室ぶんしつと云ふ、癇癖かんぺきの強い男だつた。病身な妻や弟たちは勿論、隠居さへ彼にははばかつてゐた。唯その頃この宿にゐた、乞食宗匠の井月せいげつばかりは、度々彼の所へ遊びに来た。長男も不思議に井月にだけは、酒を飲ませたり字を書かせたり、機嫌の好い顔を見せてゐた。「山はまだ花の香もあり時鳥ほととぎす、井月。ところどころに滝のほのめく、文室」――そんな附合つけあひも残つてゐる。その外にまだ弟が二人、――次男は縁家えんか穀屋こくやへ養子に行き、三男は五六里離れた町の、大きい造り酒屋に勤めてゐた。彼等は二人とも云ひ合せたやうに、滅多に本家には近づかなかつた。三男は居どころが遠い上に、もともと当主とは気が合はなかつたから。次男は放蕩に身を持ち崩した結果、養家にもほとんど帰らなかつたから。
 庭は二年三年と、だんだん荒廃を加へて行つた。池には南京藻なんきんもが浮び始め、植込みには枯木が交るやうになつた。その内に隠居の老人は、或ひでりの烈しい夏、脳溢血の為に頓死した。頓死する四五日前、彼が焼酎せうちうを飲んでゐると、池の向うにある洗心亭へ、白い装束しやうぞくをした公卿くげが一人、何度も出たりはひつたりしてゐた。少くとも彼には昼日なか、そんな幻が見えたのだつた。翌年よくとしは次男が春の末に、養家の金をさらつたなり、酌婦と一しよに駈落ちをした。その又秋には長男の妻が、月足らずの男子をとこのこを産み落した。
 長男は父の死んだ後、母と母屋に住まつてゐた。その跡の離れを借りたのは、土地の小学校の校長だつた。校長は福沢諭吉翁の実利の説を奉じてゐたから、庭にも果樹を植ゑるやうに、何時か長男を説き伏せてゐた。爾来じらい庭は春になると、見慣れた松や柳の間に、桃だのあんずだのすももだの、雑色の花を盛るやうになつた。校長は時々長男と、新しい果樹園を歩きながら、「この通り立派に花見も出来る。一挙両得ですね」と批評したりした。しかし築山や池や四阿あづまやは、それだけに又以前よりは、一層影が薄れ出した。云はば自然の荒廃の外に、人工の荒廃も加はつたのだつた。
 その秋は又裏の山に、近年にない山火事があつた。それ以来池に落ちてゐた滝は、ぱつたり水が絶えてしまつた。と思ふと雪の降る頃から、今度は当主がわづらひ出した。医者の見立てでは昔の癆症らうしやう、今の肺病とか云ふ事だつた。彼は寝たり起きたりしながら、だんだんかんばかりたかぶらせて行つた。現に翌年の正月には、年始に来た三男と激論の末、手炙てあぶりを投げつけた事さへあつた。三男はその時帰つたぎり、兄の死に目にも会はずにしまつた。当主はそれから一年余り後、夜伽よとぎの妻に守られながら、蚊帳かやの中に息をひきとつた。「蛙が啼いてゐるな。井月せいげつはどうしつら?」――これが最期の言葉だつた。が、もう井月はとうの昔、この辺の風景にも飽きたのか、さつぱり乞食にも来なくなつてゐた。
 三男は当主の一週忌をすますと、主人の末娘と結婚した。さうして離れを借りてゐた小学校長の転任を幸ひ、新妻と其処へ移つて来た。離れには黒塗の箪笥たんすが来たり、紅白の綿が飾られたりした。しかし母屋ではその間に、当主の妻が煩ひ出した。病名は夫と同じだつた。父に別れた一粒種の子供、――廉一れんいちも母が血を吐いてからは、毎晩祖母と寝かせられた。祖母は床へはひる前に、かならず頭に手拭をかぶつた。それでも頭瘡づさうの臭気をたよりに、夜更よふけには鼠が近寄つて来た。勿論手拭を忘れでもすれば、鼠に頭をまれる事もあつた。同じ年の暮に当主の妻は、油火あぶらびの消えるやうに死んで行つた。その又野辺送りの翌日には、築山の陰の栖鶴軒せいかくけんが、大雪の為につぶされてしまつた。
 もう一度春がめぐつて来た時、庭は唯濁つた池のほとりに、洗心亭のかや屋根を残した、雑木原の木の芽に変つたのである。

     中

 或雪曇りの日の暮方、駈落ちをしてから十年目に、次男は父の家へ帰つて来た。父の家――と云つてもそれは事実上、三男の家と同様だつた。三男は格別嫌な顔もせず、しかし又格別喜びもせず、云はば何事もなかつたやうに、道楽者の兄を迎へ入れた。
 爾来次男は母屋の仏間に、悪疾のある体を横たへたなり、ぢつと炬燵こたつを守つてゐた。仏間には大きい仏壇に、父や兄の位牌ゐはいが並んでゐた。彼はその位牌の見えないやうに、仏壇の障子をしめ切つて置いた。まして母や弟夫婦とは、三度の食事を共にする外は、ほとんど顔も合せなかつた。唯みなし児の廉一だけは、時々彼の居間へ遊びに行つた。彼は廉一の紙石板かみせきばんへ、山や船を描いてやつた。「向島むかうじま花ざかり、お茶屋のねえさんちよいとお出で。」――どうかするとそんな昔の唄が、覚束おぼつかない筆蹟を見せる事もあつた。
 その内に又春になつた。庭にはひ伸びた草木の中に、乏しい桃や杏が花咲き、どんより水光りをさせた池にも、洗心亭の影が映り出した。しかし次男は不相変あひかはらず、たつた一人仏間に閉ぢこもつたぎり、昼でも大抵はうとうとしてゐた。すると或日彼の耳には、かすかな三味線の音が伝はつて来た。と同時に唄の声も、とぎれとぎれに聞え始めた。「この度諏訪すはの戦ひに、松本身内の吉江様、大砲固おほづつかためにおはします。……」次男は横になつた儘、心もち首をもたげて見た。と、唄も三味線も、茶の間にゐる母に違ひなかつた。「その日の出で立ち花やかに、勇み進みし働きは、ぱれ勇士と見えにける。……」母は孫にでも聞かせてゐるのか、大津絵の替へ唄を唄ひ続けた。しかしそれは伝法肌の隠居が、何処かの花魁おいらんに習つたと云ふ、二三十年以前の流行唄はやりうただつた。「敵の大玉身に受けて、是非もなや、惜しき命を豊橋に、草葉の露と消えぬとも、末世末代名は残る。……」次男は無精髭ぶしやうひげの伸びた顔に、何時か妙な眼を輝かせてゐた。
 それから二三日たつた後、三男はふきの多い築山の陰に、土を掘つてゐる兄を発見した。次男は息を切らせながら、不自由さうにくはふるつてゐた。その姿は何処か滑稽な中に、真剣な意気組みもあるものだつた。「あに様、何をしてゐるだ?」――三男は巻煙草をくはへたなり、後から兄へ声をかけた。「おれか?」――次男はまぶしさうに弟を見上げた。「こけへ今せんげ(小流れ)を造らうと思ふ。」「せんげを造つて何しるだ?」「庭をもとのやうにしつと思ふだ。」――三男はにやにや笑つたぎり、何ともその先は尋ねなかつた。
 次男は毎日鍬を持つては、熱心にせんげを造り続けた。が、病に弱つた彼には、それだけでも容易な仕事ではなかつた。彼は第一に疲れ易かつた。その上慣れない仕事だけに、豆をこしらへたり、生爪なまづめいだり、何かと不自由も起り勝ちだつた。彼は時々鍬を捨てると、死んだやうに其処へ横になつた。彼のまはりには何時になつても、庭をこめた陽炎かげろふの中に、花や若葉が煙つてゐた。しかし静かな何分かの後、彼は又蹌踉よろよろと立ち上ると、執拗に鍬を使ひ出すのだつた。
 しかし庭は幾日たつても、捗々はかばかしい変化を示さなかつた。池には不相変あひかはらず草が茂り、植込みにも雑木が枝を張つてゐた。殊に果樹の花の散つた後は、前よりも荒れたかと思ふ位だつた。のみならず一家の老若も、次男の仕事には同情がなかつた。山気やまぎに富んだ三男は、米相場やかひこに没頭してゐた。三男の妻は次男の病に、女らしい嫌悪を感じてゐた。母も、――母は彼の体の為に、土いぢりの過ぎるのをおそれてゐた。次男はそれでも剛情に、人間と自然とへ背を向けながら、少しづつ庭を造り変へて行つた。
 その内に或雨上りの朝、彼は庭へ出かけて見ると、ふきの垂れかかつたせんげの縁に、石を並べてゐる廉一を見つけた。「叔父さん。」――廉一は嬉しさうに彼を見上げた。「おれにも今日から手伝はせておくりや。」「うん、手伝つてくりや。」次男もこの時は久しぶりに、晴れ晴れした微笑を浮べてゐた。それ以来廉一は、外へも出ずにせつせと叔父の手伝ひをし出した。――次男は又をひを慰める為に、木かげに息を入れる時には、海とか東京とか鉄道とか、廉一の知らない話をして聞かせた。廉一は青梅を噛じりながら、まるで催眠術にでもかかつたやうに、ぢつとその話に聞き入つてゐた。
 その年の梅雨は空梅雨からつゆだつた。彼等、――年とつた癈人と童子とは、烈しい日光や草いきれにもめげず、池を掘つたり木を伐つたり、だんだん仕事を拡げて行つた。が、外界の障害にはどうにかかうにか打ちつて行つても、内面の障害だけは仕方がなかつた。次男はほとんど幻のやうに昔の庭を見る事が出来た。しかし庭木の配りとか、或はみちのつけ方とか、細かい部分の記憶になると、はつきりした事はわからなかつた。彼は時々仕事の最中、突然鍬を杖にした儘、ぼんやりあたりを見廻す事があつた。「何しただい?」――廉一はかならず叔父の顔へ、不安らしい目付きを挙げるのだつた。「此処はもとどうなつてゐつらなあ?」――汗になつた叔父はうろうろしながら、何時も亦独りごとしか云はなかつた。「このかへでは此処になかつらと思ふがなあ。」廉一は唯泥まみれの手に、蟻でも殺すより外はなかつた。
 内面の障害はそればかりではなかつた。次第に夏も深まつて来ると、次男は絶え間ない過労の為か頭も何時か混乱して来た。一度掘つた池を埋めたり、松を抜いた跡へ松を植ゑたり、――さう云ふ事も度々あつた。殊に廉一を怒らせたのは、池のくひを造る為めに、水際の柳をつた事だつた。「この柳はこの間植ゑたばつかだに。」――廉一は叔父をにらみつけた。「さうだつたかなあ。おれには何だかわからなくなつてしまつた。」――叔父は憂欝な目をしながら、日盛りの池を見つめてゐた。
 それでも秋が来た時には、草や木のむらがつた中から、おぼろげに庭も浮き上つて来た。勿論昔に比べれば、栖鶴軒せいかくけんも見えなかつたし、滝の水も落ちてはゐなかつた。いや、名高い庭師の造つた、優美な昔の趣は、ほとんど何処にも見えなかつた。しかし「庭」は其処にあつた。池はもう一度澄んだ水に、円い築山を映してゐた。松ももう一度洗心亭の前に、悠々と枝をさしのべてゐた。が、庭が出来ると同時に、次男は床につき切りになつた。熱も毎日下らなければ、体の節々も痛むのだつた。「あんまり無理ばつかしるせゐぢや。」――枕もとに坐つた母は、何時も同じ愚痴ぐちを繰り返した。しかし次男は幸福だつた。庭には勿論何箇所でも、直したい所が残つてゐた。が、それは仕方がなかつた。かく骨を折つた甲斐だけはある。――其処に彼は満足してゐた。十年の苦労はあきらめを教へ、詮めは彼を救つたのだつた。
 その秋の末、次男は誰も気づかない内に、何時か息を引きとつてゐた。それを見つけたのは廉一だつた。彼は大声を挙げながら、縁続きの離れへ走つて行つた。一家はすぐに死人のまはりへ、驚いた顔を集めてゐた。「見ましよ。兄様は笑つてゐるやうだに。」――三男は母をふり返つた。「おや、今日は仏様の障子が明いてゐる。」――三男の妻は死人を見ずに、大きい仏壇を気にしてゐた。
 次男の野辺送りをすませた後、廉一はひとり洗心亭に、坐つてゐる事が多くなつた。何時も途方に暮れたやうに、晩秋の水や木を見ながら、……

     下

 それはこの宿の本陣に当る、中村と云ふ旧家の庭だつた。それが旧に復した後、まだ十年とたたない内に、今度は家ぐるみ破壊された。破壊された跡には停車場が建ち、停車場の前には小料理屋が出来た。
 中村の本家はもうその頃、誰も残つてゐなかつた。母は勿論とうの昔、い人の数にはひつてゐた。三男も事業に失敗した揚句、大阪へ行つたとか云ふ事だつた。
 汽車は毎日停車場へ来ては、又停車場を去つて行つた。停車場には若い駅長が一人、大きい机に向つてゐた。彼は閑散な事務の合ひ間に、青い山々を眺めやつたり、土地ものの駅員と話したりした。しかしその話の中にも、中村家の噂は上らなかつた。いはんや彼等のゐる所に、築山や四阿あづまやのあつた事は、誰一人考へもしないのだつた。
 が、その間に廉一は、東京赤坂の或洋画研究所に、油画の画架に向つてゐた。天窓の光、油絵の具の匂、桃割に結つたモデルの娘、――研究所の空気は故郷の家庭と、何の連絡もないものだつた。しかしブラツシユを動かしてゐると、時々彼の心に浮ぶ、寂しい老人の顔があつた。その顔は又微笑しながら、不断の制作に疲れた彼へ、きつとかう声をかけるのだつた。「お前はまだ子供の時に、おれの仕事を手伝つてくれた。今度はおれに手伝はせてくれ。」……
 廉一は今でも貧しい中に、毎日油画を描き続けてゐる。三男の噂は誰も聞かない。

(大正十一年六月)


底本:「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」筑摩書房
   1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:もりみつじゅんじ
1999年3月1日公開
2004年3月14日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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11/18㈯、冴えない天気の一日、外遊びも外仕事もやる気にならず、屋内でブラブラしていたら、横殴りの初雪が降ってきた。


明日は晴れる?ようだから、そろそろスタッドレスタイヤに交換しておかなくては。



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奥蓼科、明治温泉の上の苔の林を楽しんだ後は、温泉下のオシドリ隠しの滝へ。


これだけ景色の良い場所なのに、観光客は極少数、ちょっともったいない感じ。
滝に面した明治温泉も少し古びた感じになっていてうら寂しい。ただ、今日は午前中にきてしまったが、新緑とか紅葉の平日にのんびりとお風呂に入りにくるのも有りだと思う。


次に向かった先は1時間余りのドライブで、これも10日前に泊まったばかりの清里の清泉寮へ。


残念ながら目では見えるけれど、ほとんど写真に写らない再冠雪した富士山を眺めながら、


前回泊まった時頂いたクーポン消費を目的のランチを頂く。


ゆっくりランチを頂いた後、大泉駅前のパノラマの湯で暮れ行く富士山を眺めながら、1時間半の長湯。その後、長坂ICから高速で帰宅。アチコチ回らず、のんびりとできた一日だった。

 

 



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11/4㈯の家族サービスの時、御射鹿池/奥蓼科を目指したのだが、連休中/紅葉ピークで御射鹿池まで2kmの駐車場空き待ち渋滞。すごすごと敗退/Uターンした。
11/15㈬紅葉が終わっているのは分かっていたが、前日NHKの番組で奥蓼科明治温泉を紹介していたので、リベンジに出かけることにした。まずは御射鹿池。


10日前には、一日数千人の人が訪れた御射鹿池も紅葉が完全に終わり、唐松も茶色。風が無く折角ミラーレイク状態なのだが、観光客は10人程度、うら寂しい風景になってしまっている。


車を駐車場に停めたまま、明治温泉へ数百m歩く。目的はコケのむしたこの林。


土ではなく、岩の上をコケが覆いつくしている。


フィトンチッド一杯の森の苔道を抜けると、目の前には溶岩の上を流れ落ちる、いくつもの滝が現れた。


帰り道、足元をよく見ると、凄い霜柱。


すっかり冬の奥蓼科、明治温泉であった。



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急に冬に突入したので、大急ぎで冬支度をしなければ。
ついこの間まで窓を開けて入っていたお風呂。窓を閉めていても冷気が降りて来るような気がする今日この頃。



景色は見えにくくなるが、倉庫に仕舞ってあった、昨シーズンに作ったポリカの内窓を再度設置する。


続いて、LDKの出窓も冷気が降りて来る気がするので、これも昨シーズン作った内窓を設置する。



こちらは構造が複雑なので、嵌め殺しで開閉できないが、冷気はしっかり遮断してくれるはず。


外シャッター+二重ガラス窓+自作中空ポリカ内窓でなんとか今年の冬も乗り切りたい。



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冬の間、非常に寒がりの植物類は室内やサンルーム内に避難させるのだが、それ以外の植物も日当たりの良い、風が強く当たらない場所に置いておかなくては、冬を越すのが困難である。
幾つかのプランターや鉢植えを旧宅南側に纏めて、風よけにビニールシートを張って見た。


日中はまだ日が当たるのだが、冬至の頃になると、隣の家の影で少し日照時間は短くなるが、それでも数時間は日が当たるので、ここなら無事に越冬してくれると思う。



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11/11今年株分けしたシャコバサボテンがサンルーム内で早くも開花し始めた。


サンルーム内の良く日の当たる場所に置いておいたので開花したのだろうが、少し早すぎかも??もう少し温度の低い廊下に移そうか?

一方、外気温が急激に下がってきたので、サンルームの隙間風や夜間の温度低下が気になる。そこで、去年は適当に古いビニールシートを内張したのだけれど、今年は新しいビニールシートを外張りすることにした。


窓の高さが2mと1.8m巾のビニールシートに対してチョット大きいのだが、下部に30cmほどビニールシートを継ぎ足して、かなりうまく貼ることができた。


これで、風の強い日やあまり日差しの無い日に1度でも2度でも温度が高く成って欲しい。



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11/3に夏日、最高気温25度越えとかやっていたのに、今朝起きてカーテンを開けたら、、、、


ようやく紅葉した我家のモミジの向こう、標高1092mの鳴雷山が白くなっている。我家の辺りは雨だったが、標高900m以上は雪になったようだ。


木曽方面はもっと降ったようだ。


夏から急に冬で秋が無い。この辺りの秋の紅葉を楽しむ余裕もない。ここ数日やってきた冬への準備を加速させなければ。
あっ、スタッドレスタイヤへの交換はあと数日待って欲しい。その前に植物や屋内の防寒対策をせねば。



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ずっと平年より暖かい日々が続いていたが、一雨降って急に寒くなり、我家のダンコウバイやカエデが黄色や赤色に染まってきた。


ビニール温室内の作物の生育速度も落ちてきた。


進む紅葉と同じ様に、青いトマトも赤くなってくれるか? それとも青いままで片付けなければならないのか?



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