逆風に抗して Against the wind,♪ we are running against the wind.♪
ここではないどこかへ。モモンガーの旅
2018年に横浜から信州にUターン
自転車と日々の生活を
綴ります。
 



図書館のフィライヤーで見て、えんてらすで行われた戦中史の講演会に出かけた。
長野県は最も多い満洲移民を出した県であり、阿智村には満蒙開拓平和記念館がある。以前からその全容を理解したいと思っていた所にタイミング良く、展示会と講演会があったので今日出かけた。会場に1時間ほど前に着くと、もうお待ちのお年寄りも居て、本日の盛会を予想させる。開場15分前でこの盛況であった。


まずパネル展「満蒙開拓の轍」を見てから、時代背景、概況、戦後の逃避行などを学ぶ。30分前に入場できたので、前列に座って待っていると後に立ち見も出る状況。


ジョークを交えつつ、数値と絵解きを加えて、悲惨な状況を、だが、解りやすく説明していただいた講師の青木先生の講演は素晴らしいものであった。

これは、月末に予定している南信旅行の際に、是非満蒙開拓団平和記念館を訪問しなくては。



「前事不忘、後事之師」忘れてはいけないことがある。



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去年は都合により参加できなかった、工場の同窓会に出席してきた。
半分海の上にプラットフォームがある通勤終着駅は45年前と変わらないたたずまい。


反対側のベイブリッジ、つばさ橋方面は30年前に様変わりしたが、最近はあまり変化が無い。


と思って工場側を眺めると、45年前に工場勤務を始めた13号館が完全に取り壊され、駐車場/資材置き場になっていてびっくり。


執務場所の3階の部屋は、冷房はまだなかったが、夏でも海を渡って来る風が入り、すごしやすく、上司から見えないよう製図板を立て、その陰で、うたた寝をしたのが懐かしい。

工場の中をぐるっと一回り、数km歩き回って、製品群を見る。生産量が落ちているのが手に取るようにわかり、寂しいかぎりだ。40年前、まだ駆け出しの現場技術者だった頃、汗と粉塵と油にまみれて仕事をしていた150トンクレーン下の水車の組立現場も、今は完全空調の防塵室に改造され、国際核融合研究のITER向け巨大コイル製造現場になっていた。
工場内の写真は撮影禁止なので、下図は超多忙だった頃の1979年2月の水車組立現場。皆が記念撮影のカメラに向かっている中、日限に追われ、私は隅っこで30トンの南アフリカ向けランナ(水車のローター)のバランス計算をしていた。


OBの人数が多いので、会場が2分割になり、話せなかった方々もでたが、主な諸先輩にご挨拶したり、工場や関連会社の幹部になった後輩から現状の説明を聞き、懇親会は盛り上がるのであった。



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去年は信州Uターンの真っ最中でパスしてしまった西穂慰霊登山、今年は天気も良さそうなので、日帰りで慰霊登山に向かうことにした。
途中、S木君を拾い、波田で同行のS田君、本日、車提供のK君と落ち合う。沢渡、安房峠を越え、しらかば平のロープウェイに到着、8:15の始発便を待つ。



到着時はすべての山が見える快晴だったが、ロープウェイに乗る頃にはガスが出始めて、笠ヶ岳にかかり始めた。


今回はリーダーのK君が1週間ほど前、足に怪我をしたとかで、ゆっくりペースで登ってくれるので、逆に快調で登れた。休憩したのは歩き始めて40分後。


まもなく、ディーゼル発電機の音が聞こえ始めれば、歩き始めて1時間15分でもう西穂山荘。足を痛めたとかで、Mさんが山荘で出迎えてくれる。



荷物整理をし、小さなザックに念のため雨具他を入れて、登頂再開。ガスで上高地方面がチラチラしか見えないが、その代わり暑い日差しがないので、快調に登れる。



途中丸山で記念撮影休憩。


岩陰に咲いた高山植物に癒されながら、登る。


登山開始から3時間弱の11時15分に、独標に到着。前日西穂山荘泊で慰霊祭に参加している15人ほどの同級生、それに数人の関係者に迎えられる。西穂高岳は残念ながらガスの中。



狭い独標山頂で30人ほどが花束、線香をあげ、黙祷。



前泊組が少しずつ下山する中、当日組はしばらく残り、52年前に想いを馳せる。別の山に登っていて、事故には直接絡まなかった私的には、11人が死亡し、その後自殺者まで出してしまった落雷事故を風化させてはならないと思う一方、高校卒業50年も経ち、そろそろ自分の心の重荷は下しても良いかなと思ってぼんやり風景を眺めていた。独標頂上から西穂側の鞍部を見ると、52年前に登山グループの最後尾付近に居たK君が、自分が倒れていた現場まで行き、当時を振り返っている姿が印象的であった。



献花した花などを片付け、人数も減った独標山頂で当日登山組の写真を撮ってもらう。


遠雷は1回のみ聞こえただけで、荒天化する恐れは少ないが、ガスも切れないので、先行して下山している前泊組に続いて、下山しましょう。


シャクナゲの咲いている森林限界あたりまで下れば、もう安全。



西穂山荘で、上高地まで徒歩で下る健脚組を見送り。


さらに、前泊のロープウェイ組も見送り、


遅い昼食後、我々も出発。黙々と下って、ロープウェイ付近の避難小屋まで、



登山中、ほとんど日差しが無く、ガスに包まれていたものの、雷雨の心配がなかった一日。体力、気力の衰えを感じながらも8回目の慰霊登山を無事にすませた満足感で、仲間と共にロープウェイで下山した。


一部、記録喪失している所もあるが、当日のルートと時間、写真他は下図ダブルクリックで。



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昨日は私の誕生日。10年前、定年を間近に控えて始めたこのブログにのタイトルに「逆風に抗して」を選んだ理由として、
その時代の風のような物に常に逆らおうとする「逆風に抗する」姿勢が身に着いてしまった」と書いた。10年後のこの頃は、風に押し流されることも多いと反省しているのだが、、、

50年前、受験前と言うのに、学校をサボり、家の炬燵の中から一日中安田講堂の攻防戦をTVで眺めていた。あの攻防戦のおかげで、東大入試は無くなり、行きたかった京大は超難関校になってしまった。勉強もしていない私の京大入試成績は合格ラインからほど遠いものだった。まあ、そのせいで、浪人。3回目の試験でようやく入った駿台予備校では、周りは皆東大志望者ばかり。その流れに乗って、一年後トコロテン式に東大に入った。大学には入ったものの、1、2年の時は授業には全く出ず、学生運動に熱中していた。在学中は1/18になると、必ず数百人の集会があり、友人からは今日は誕生日だね、と祝われたものだった。50年後の今、私より上の世代が中心になって、安田講堂でもぐりの記念集会を開催したようだ。「もぐり」と言うのは、全共闘とか50周年とかの言葉は使うなetcの大学からの要求を飲み込んで、別タイトルで集会を開き、それに数百人もの人を集めたというのだから、たいしたものだ。私なんかと違って、きちんと逆風に抗している人達が居るのは、アナクロと思われようと、ちょっと嬉しい。

さて、政治から遠ざかった私の方は、物理的な風に打ち勝てるように、ウイグルで冬装備を50%引きで購入。


それから、77歳の兄から頼まれた中古PCのセットアップに苦労中。Core i-7, SSD128GB,RAM4GBと容量は小さいものの、キビキビと動いてくれるので、調整やソフトのインストールに悩む所もあるが、3諭吉+改造部品でこのCore i-7 PCはお買い得だった。



 



 



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数日前の今日の出来事で、1/15にローザ・ルクセンブルグが殺されてから100年経つことが紹介されていた。
彼女の言葉「両端で燃える蝋燭のように生きねばならぬ」に憧れ、48年前に買ったものの、拾い読みしかしてない本が我家には数冊残っている。


今日、塩尻図書館でいつもの如く、数冊の本を借りるついでに、ローザで検索してみたら、「友人への手紙」が有ったので、これなら読めるだろうと、借りてきた。


図書館の本は筑摩書房、古田家からの寄贈本で、裏表紙に貸し出し記録があるのだが、貸し出された痕跡がない。多分私が初めての借り出し者と思われる。この本は2週間で読んで、返さなければならないので、斜め読みでも少しは読んで、これを切っ掛けに、さらに50年前に買った本の読書にまで繋がると良いのだが。



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CNNによると、Pサイモンが今年限りでツアーから引退するそうだ。



ファンの一人として、いつまでもライブを期待したいところだが、彼にも彼の人生がある。まして身近な親友ギタリストが亡くなった時に、来し方を振り返り、行く末を考えれば、まだ力強いパーフォーマンスをする能力があったとしても、Pサイモンが活動縮小を決めたことを、ファンとしてもやさしく受け入れるべきだろう。



Pサイモンと出会ったのは、高校一年か二年の頃の Sound of Silence。 そして50年前の1968年の映画「卒業」へと続いた。

15年ほど前、卒業した高校の公用犬クロを取り上げた映画「さよならクロ」では、主人公3人が「卒業」を見る場面が出てくる。学校からの長い坂を下り、女子高の前を通り過ぎ、駅も近くなった下町にあったセントラル座、そこでデートをした設定だ。



50年前の冬、1年後に迫った受験を控え、そろそろ将来のことを真剣に考えなければならないのに、半年前に山の遭難で5人の同級生を失い、混乱の渦中にあった私。17才、それが人生でいちばん美しい年齢?のはずが、残念ながらデートで映画を見に行くなんてことは起こらなかった。逆に学校をさぼって、朝から1人で映画を見ていたら、同級生の親の婦警に補導され、数日後にはクラス中にその事が知れ渡り、気まずい思いをした17才の頃、もう50年も前のことだなぁ。

♬ Can you imagine us years from today,
♬ Sharing a parkbench quietly
♬ How terribly strange to be seventy



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以前友人から、この展示が面白いよとの助言にも拘わらず、重い腰が上がらなかったのだが、11月7日の朝日新聞夕刊一面の記事を見て、佐倉の国立歴史民俗博物館の「1968年」を見にいくことにした。(いくら朝日でも、一面にこの記事はあり得無いと思っていたのだが、深読みするとボルシェビキの暴力的政権奪取/ソ連成立からピッタリ100年が11/7だったんだね)


この記事のせいかどうかは不明なるも、結構な数の見学者が首都圏とは言え、遠い佐倉にやってきていた。



見学者の多くは私よりも少し上の、1958年に大学生だったと思われる世代。但し若い人も20%位居たのには驚かされた。また、ギャラリートークと称して、学芸員が説明するだけでなく、その現場に居合わせた人が状況を説明してくれていた。日大の卒業者の説明は50年後の今という時間を感じさせない迫力があった。

展示の内部は撮影禁止なので、多くの興味深い資料をUPすることはできないのだが、買ってきた図録には、展示内容のほとんどすべてが載っており、読みがいが有りそうだ。



色々見ようと、朝一番に家を出たが、展示が思ったよりも多かったので、見終わって外に出ればもう日がだいぶ傾いていた。予定していた佐倉市美術館の自転車展とかベアトの写真を見ることはできなかったが、すっかり満足。

しかし、「国立」と名の付く施設で、このような展示ができるリベラル/寛容な社会が続くかどうか、非常に心配な世の中ではある。



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天候はあまり良くないが、事故から50年目の今年、何とか慰霊登山に行ってきた。

 

前泊組みは朝の内に独標まで登ったそうだが、雨雲に覆われていたので、日帰り組は独標までは行かず、丸山まで登り、西穂山荘での慰霊祭に参加した。

 

 



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16日に25年間通った鶴見工場のOB会が開かれたので出席してきた。最後の日々に受注した、小さな、と言っても総重量50トン位の水車2台がちょうど工場内で組み立てられていて感激した。これらの水車は松本平の山麓3ヶ所に据え付けられ、今後50年程度は稼働することになる。工場内はもちろん撮影禁止なのだが、海芝浦駅横の公園なら撮影可能、でつばさ橋とベイブリッジを背景に一枚。


続いて、会場を大桟橋ホールに移しての懇親会。ホールの一方は横浜港に向けて開口しており、行き交う船が見える。



「不正会計」(粉飾会計が正しい用語)で大揺れとなり、いくつかの事業が売却されたり、工場が閉鎖される中、数百人のOBが集まるこの会合、いったい何時まで開催できるのか??


懇親会終了後、県民ホールで開催されていた、全日写連と朝日新聞が主催する「全神奈川写真サロン展」の2番目に展示されていた友人の作品を見に立ち寄る。彼は去年も入選しているらしく、え~ぇ、そんな才能あったのか?とおもったが、写真を見ると、構図と言い、光と陰の使い方と言い、確かに私の撮る写真とは違うことが良く判った。その後、桜木町駅まで暮れていくみなとみらいを眺めながら散歩して帰宅。



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鉄条網と監視塔のシルエットが印象的だった、「杉原千畝と命のビザ」展を横浜市歴史博物館で見てきた。


11/27まで無料で公開されているので、暇な人は訪れてみてはいかがだろう。



アウシュビッツ/オシフィエンチウムのビルケナウ強制収容所のイメージを背景に、杉原の足跡を辿った写真展。うまく纏められていて感心した。



奥様の書かれた本の影響が強かったので、本省命令に抗命してビザを出し続けた領事との印象だけだったのだが、諜報員/ソ連・ドイツの情報収集者としての顔も持つ複雑な人であることを知るに至った。


帰ってきたら、ディランがノーベル文学賞受賞のニュースが。

There must be some kind of way outta here Said the joker to the thief
--------
All along the watchtower Princes kept the view While all the women came and went
Barefoot servants, too

ディランもユダヤ人だったよね。彼については、暇があればまた後ほど。



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8/1前後の予定が詰まっていたので、日帰りで西穂高独標の慰霊登山に参加するつもりで、色々準備し7/30帰省したのだが、、、



左足ふくらはぎに違和感があり、さらにいろんな天気予報をチェックすると、北アルプスは昼から雨とのこと。以前ならこの程度で取り止めることは無かったのだが、無鉄砲は卒業し、慎重派に転換した今日この頃、独標に登るのは諦め、学校の慰霊祭に向かった。少し早く着きすぎ、校舎内をぶらぶらと一周。



1時40分からの慰霊祭には、同級生、OB、先生、現役と大勢の参加者があり。


ただ、犠牲者の親御さんはT村さんのお母さんのみか?ご兄弟や親戚の参加者が大部分となってきた。



式典後遅い昼ごはんは、坂を下った、モーリでビーフカレー。50年変わらぬ味だ。



親戚周りを済ませ、夜の「しずか」でのご苦労様会へ。当日日帰りで登った3名によれば、現地慰霊祭は天候を考慮して、早めに丸山で行われたとのこと。その後独標に登り、急いで下るも、帰路は豪雨で、川のようになった道を下山したとのこと。体調不良を言い訳に、登らなかったのは正解だったようだ。(写真ボカシてあります)



さて、来年は事故後50年。体調を整えて、登りたいものだ。



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ブログにUPするか迷ったのだが、天皇陛下の生前退位の意向を聞き、書くことにした。
今を去ること43年前、新左翼/黒ヘル/ベ平連/全共闘であった私は、4月初め新3年生を本郷に迎えた学内集会の後、天気も良いことだしと、十数名で上野にお花見に出かけたのであった。

宴も終わり、一団で上野駅に向かう途中、東京文化会館横で交通整理をする警官に行く手を遮られた。まもなくすると、パトカーに先導され、黒塗りの車で皇太子夫妻がコンサートから帰る所に出くわした。突然行く手を遮られたこと、いつもデモで対峙する多数の機動隊員ではなく、数名の警官しかいなかったこと、こちらは十数人であったこと、けっこう酔っぱらっていたこと、そしてなによりもバカ(若)かりし頃であったことから、期せずして全員で「天皇制粉砕、税金ドロボー」と罵声を上げていたのであった。

時は経ち、戦争の影をずっと引きずってこられた昭和天皇が亡くなり、平成の世になってからも、国内外の戦死者を弔い、慰霊の旅を続ける現天皇を見ていると、43年前のあの罵声に対する悔悟の念が年々高まっていたのであった。

12日に、小網代の森で、天皇陛下ご一行を追い抜いた時はそうでもなかったのだが、引き返して、再度すれ違うのを待っている間、その時の事が思い出され、同じテラスで休憩する羽目になった時には、陛下のお姿を見ながら、心の中で数回43年後のお詫びを述べておいたのであった。


さて、このブログには、あまり政治的話題は書かないことにしているのだが、あのお疲れになった陛下の様子を見るにつけ、是非とも生前退位を実現させて上げねばならないと思う次第である。平和憲法を守り、生前退位により、この国の平和と天皇家の安泰を図って行きたい意向をお持ちの天皇に対し、憲法を変えるよりも、皇室典範を変えることはもっと大変困難だとのたまう現政権のあざとさにはあきれるばかりである。


 



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3年前の骨折もあり、できないでいた西穂高独標の慰霊登山に5年振りに出掛けた。
??ツメクサ??の向こうに笠ヶ岳が聳えている。


独標には、もう多くの同窓生他が集まっているようだ。


着きました、6度目の独標。


同窓生十数名、在校生も同じくらいの人数、総勢40名弱で慰霊、黙祷を行う。
今井さんが、亡くなった11名が残された我々の絆を非常に強いものにしてくれているとの話に、そうだなぁと強く思った次第。


早くから登っていた諸君が下山した後、一人独標に残り、天気も良いのでゆっくり昼食をいただく。せっかく持ってきた、アルコールバーナーでコーヒーを淹れ、四十数年前のことを思い出しながら、穂高岳を背景に瞑想にふける。


さあ、後は一人で下山。下りでは右足骨折後のバランスが心配だったので、慎重に丸山まで下りてきた。


その後、西穂山荘からは2時15分のロープウェイに間に合わせるべく、駆け足で登山道を下る。だいぶ昔の感覚が戻って来てはいるものの、やはり、負荷をかけると右足が痛い。
2時12分頃、この便最後の乗客をなり、先行して下っていたグループに追いつき下山。
新穂高温泉の無料露天風呂で汗を流し、慰労会の予定されている松本の「しずか」にむかったのであった。


5年前より確実に体力は落ち、右足も痛くなったが、同級生と一緒に慰霊登山できたのは、何よりであった。

 

 



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つい最近の出来事のように、色々な記憶が蘇って来るのだが、同級生5名を含む11名を
失った西穂高岳独標の落雷事故からもう45年も経ってしまった。

60才を過ぎて、自分の時間を自由に出来る人が多くなったのか、今年も10名を越す同級
生が山に登っているとのことだ。

前後に色々な行事があり、その上腰痛にもなってしまったので、今回は登山はあきらめ、
学校の慰霊祭に日帰りで出席してきた。

慰霊祭には、数多くの在校生も参加してくれた。


亡くなった同級生の親御さんも数が少なくなってきた。今日出席されたTさんを囲んで、
学校に来た同級生と写真を撮らせていただいた。

また一年、精一杯生きようという思いを新たにした、一日であった。

山に登ったときの記録は
2010年 http://blog.goo.ne.jp/momonger1/e/a8ec3ed7d49e1ed59a58380c917a7b0f

2009年
http://blog.goo.ne.jp/momonger1/e/e04514933d1745a18462bbd9a0409aec



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8/1は去年まで、5年連続で高校の同級生の遭難追悼のため、西穂高独標に登っていた。

今年も登ろうと休暇はとって有ったのだが、家の片付けで腰痛が酷くなってしまったこと、8/1月曜日に日帰り登山の後に帰京し、翌日出社では体に堪えること、そして最後に天気が思わしくなかったことから、今年は登山はお休み、学校の慰霊祭に出席することにした。

久しぶりの慰霊祭は、在校生の出席も以前よりは多く、また60を過ぎた同級生も20人ほど参列し、献花だけでも随分と時間が掛かった。ただ当然のごとく、ご遺族の出席は年々少なくなっているとのこと。

今回は一人だったので、フルオープンにしたロードスターで帰ってきた。メーターを覗くと、19年目でようやくの4万7千kmしか走っていない。もっと乗ってやらなくては。



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