逆風に抗して Against the wind,♪ we are running against the wind.♪
ここではないどこかへ。モモンガーの旅
2018年に横浜から信州にUターン
自転車と日々の生活を
綴ります。
 



信州のこの辺りでは、雪が降らないと逆に寒さが厳しい。例年なら2月中旬には福寿草が咲くのだが、まだ蕾がやっと顔を出し始めた所。


パンジーの苗も花が咲いているのは一輪のみで、あとはしぼんでいる。


チューリップは芽が出てきたが、うまく咲いてくれるか?


1/24に播いたスナップエンドウも、電熱シートで加温している割には、心なしか生育が遅いように思われる。


例年なら、育苗箱の深さ25cmを越えるくらいに育って、ビニールハウスに移したりしていたのだが、今年はまだひ弱でダメだね。



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この所、他の興味に時間を取られ、ブログ更新の頻度が落ちている。
長野県北部では積雪が2mを越えたというのに、今回の大雪ではJPCZの風が北西方向から吹いてくるので、まず石川県の白山で止められ、さらに北アルプスで雪雲が堰き止められ、松本平は鉄壁の守りとなりほとんど積雪ナシ。庭に設けたムロも上蓋の凍結さえ避けられれば、簡単に開けられる。


冬の間食べてきた、大根やニンジンもあと一回の残りとなった。


畑の地面はコチコチに凍っているが、なんとか凍結を免れているビニールハウスの中には最後のキャベツと白菜があるので、3月初めまでの野菜は何とかなりそう。


あとは遅く播いたホウレン草が何とか育ってほしいなぁ。



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2/2㈰は節分。この時期としては珍しく、ほとんど雪が無い冬。裏日本では大雪で困っているが、北アルプスが雪雲を押しとどめ、松本平では積雪が無い。
そんな中、節分の豆まき。かってはバラで豆まきをしていたが、後の掃除が大変だ。なので、最近は袋ごと撒き、あとで回収。


この歳になると、福豆を年齢の数だけ食べるのも大変だ。

さて、ぐずぐず引き延ばしてきた確定申告、やる気を注入して、一日で完成。やればできるじゃん。私のスマホはNFC不対応なので、郵便で出すついでに、高校の150周年への寄付も振込の為に郵便局へ。



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1967-10/1に発行された信濃教育 第971号 のP68~93に『芥川龍之介作「庭」の解釈とその題材をめぐって』という評論が載っており、筆者の高林市治さんが、父や万福寺の金井正俊住職から聞き取った話が載っている。今まであまり知らなかった話や再発見の話がのっているので、「庭」に関する史料としてアーカイブしておく。

【あまり知られていなかった話】
①小穴隆一の父、小穴唯一郎は志村巌の三男ではあるが、後妻(松本市中町万藤家より嫁す)の初めての子。徴兵を逃れる為?架空?の小穴家への養子と言うにしたとの風説ありとのこと。
②「庭」に伝法肌(ヤンチャ)と描かれた志村巌は、岡谷の茶屋本陣の今井家から養子として志村家に入り、明治22年~29年まで宗賀村の初代村長であった。豪傑/傍若無人でいくつかの逸話がある。例えば小松家の婚礼の帰りに酩酊し、馬の用意を命じたが、無かったので大男に跨って家に帰った。葬儀の精進落としでお寺様を差し置いて上座に座った。村有林の調査の役人に、この沢の名前はと聞かれ、適当に名前を付けて返答した。等々、、、
③志村巌の長男志村勘一は経済的に破綻し、間口6間一杯に建てられていた脇本陣の建屋を売り払った。(現在も移築された建物が安曇野三郷に残っている)その後、三男の小穴唯三郎が家を再建、子の小穴隆一が相続したが、その建物は昭和7年の洗馬大火で焼け、家の無い土地は松本の万藤家が管理していた。
④大火の後、庭や屋敷跡は20年ほど放置され、近所の人が畑を作ったりした。
⑤20年間の放置の間に、ひょうたん池の西側は防火用水池を掘った土砂で埋められ、東側だけが残っている。
⑥ひょうたん池にはせんげから水が落ち、脇本陣に泊まった御岳修験者が荒行を行った。
⑦洗馬大火の後、石灯篭等の庭石の多くは葛家に移された。閑園神霊の石碑は庭に埋もれていたものを建て直した。
⑧志村家の墓所は2ヶ所あり、一つは百瀬守が引継ぎ、もう一つは尾沢橋の横にある。

タグ 芥庭



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1/30㈭、25年間所属していた事業所の同窓会が開かれた。かっては正規従業員だけで数千人、全体では1万人以上いた事業所も正規従業員は二千人程度に縮小されている。同窓会に先立つ工場見学で、1時間半ほど工場内を歩き回ったのだが、かって主力であった火力用の蒸気タービン、発電機があまり見受けられない一方、大型モーターや超電導コイルの製造現場が忙しそうに稼働していた。また、数十年間使われ続けていた数m角の部品を加工する自社製の五軸NC加工機や戦前に輸入された十数mの主軸を加工する旋盤などが廃止され、新型機械に置き換わっているのも、寂しい一方、今後の光明となる発見であった。
私の出身の水力部門も、奥只見発電所などの数十トンの取替部品や新規発電所向けの機器が現場に散見されたので、一安心であった。現役世代に話を聞くと、人が減らされた分、増々忙しく働いているようだった。
今日は冬晴れ、工場の食堂前から、東京湾の向こうに富士山が良く見える。



工場の同窓会に会費を払って登録している人は千人余り、もう高い会費を払っていない人も数千人は居るのだろう。今までは、これらの会員に郵送で案内状を送り、見学会や同窓会の会場を設定し、会食の場を提供するのを、工場の総務部門が僅かの実費負担+会社経費でやっていた。だが時代の趨勢から、そのようなことを継続するのは無理であり、今までの形態での同窓会は今回が最後のものとなった。そんなことを予知したのか、出席者は二百人余りに昇り、懇親会も座りきれないほどの盛況であった。


まだ部門毎の私的に組織された同窓会は続くであろうが、今回は他部門でお世話になった何人かの先輩方に、今まで受けたご厚情に感謝し、私のしでかしたご迷惑へのお許しをお願いできて、本当に有意義だった最後の同窓会であった。

付録
BSで鶴見線の車窓風景番組をやっていた。工場の現場事務所からの風景。海芝浦駅の向こうにつばさ橋と遠く横浜ベイブリッジ。入社まもなく、この海を眺める事務所の3階で執務していた。工場内からこの風景を眺めることは叶わなくなりそうだが、海芝浦駅が廃止されず、駅から海が眺められる日が続くことを願う。(とは言え、線路はJRへの貸与であり、海に面していて、線路や護岸の維持には多額の金が必要なので、このご時世ではいつ廃止になってもおかしくない)




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1/29㈬、厳冬期でお客さんが少なく、オフシーズン料金となるのを狙って、蓼科の滝の湯へ。寒い、サムイ。それでもまだ、この時期にしては、ほとんど雪が無いのが救いだ。旅館までは雪の心配なしに登ってこれた。



でも水がしたたり落ちれば、そのまま氷瀑になる。


さっそく、露天風呂にドボン。(ホテルのHPから)川沿いの開放的な露天風呂。


お風呂からあふれ出たお湯が滝のように流れている。


食事はバイキングなのだが、それほど混んでいなかったし、インバウンド客も10%程度と少なく、のんびりできた一日だった。



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洗馬宿の近代史に関連する記事が最近市民タイムスに掲載された。著作権ウンヌンの問題は承知しながら、デジタルアーカイブとして、この記事を残しておかないと、どこかに埋もれてしまうことを恐れ、本ブログに収録しておく。(ゴメン、市民タイムスさん許して!)





新聞記事やそこに引用されている塩尻市誌にも記されていないし、レゾナックのHPにも言及されていないが、塩尻駅前に工場を構えている昭和電工⇒レゾナック塩尻工場は、1911年、この洗馬産の石灰岩と梓川水系の水力発電所(島々発電所や赤松発電所)の電力を使い、2000℃の高温に達する炭素電極電気炉でカーバイドを塩尻工場で生産した。カーバイドは水を加えればアセチレンガスを発生できるので、民生用として一昔前は夜店の照明などによく使われたが、大量に使われる産業用には、その強力な反応力を生かして、色々な化学物質の原料として便利に使われた。だが、洗馬産の石灰岩は生産量も少なく、純度もあまり高くなかった為、高度成長期には、その生産を終えた。

洗馬宿の歴史の一端を歴史に残す為、記事中の酒井さんと近日中に連絡を取り、暖かくなったら見学会などを組織できれば良いなと考えている。

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注記:
①私は石灰石の採掘場所は床尾だと思っていた。と言うのは、1965年の台風6号で石灰石採取の残余物=ズリが積みあがったものが崩れ、床尾で画家が死亡している災害があったからである。ところが、この記事で主要な採掘場所は洗馬の大怒田上流であることが分かった。
②平出の泉近くにある石灰岩の露頭は、私は鍾乳洞の陥没したものかとも思っていたのだが、記事によれば江戸時代の石灰岩採掘跡らしい。
③桔梗ヶ原ではブドウ栽培が盛んで最近は城戸ワインなどプレミアムの付くワインが生産されている。ひょっとして、石灰岩を含む土壌が鳴雷山から流れ出し、そのテロワールがワイン用ブドウの生産に大きな影響を与えているのではないか?
④近くの御手洗神社の石段がすべて石灰岩であり、どうしたわけかと思っていたが、同じ大怒田の数百mしか離れていない場所なので、良質でない石灰岩⇒石段としては利用価値ある廃材を使ったものでありそうだ。


⑤以下に1931年の地図と           2001年の地図を示す。
1931年地図には工場、住居と思われる個所あり。



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夜の寒い時間帯、気温は零下だけれど、1/25㈯一日限りのイベント、「平出遺跡を彩る光の旅」を覗いてきた。


遺跡公園全体に点灯した灯篭が飾られている。この寒さにも関わらず、観客は数十人は居そう、思ったより若い人や家族連れが多い。


竪穴式住居の屋根を利用したプロジェクション。


しかし、厚着をしてきたのだが、ご老体には寒さがきつ過ぎる。


20分ほどぶらついただけで、撤退してきた。



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1/24㈮、スナップエンドウの種まきをしようと、用土作りのために篩っておいた土を使おうとしたら、凍っていて表面しか使えない。


しばらく日向で溶かして、籾殻を混ぜて、用土を作り、育苗ポット16個に種まき。


暖地では去年撒いた種が大きく育ち、もう花が咲いているらしいが、ここ信州ではまだ土が凍っているような気温だ。屋外では発芽温度を確保できず、種まきの時期ではないのだが、サンルーム内の自家製育苗保温箱の設定温度を15℃~20℃に設定し、


なんとか発芽させ、2月一杯はサンルームの中で育てて、春先に畑に植える予定。



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「頭痛を知ろう~危険な頭痛、治せる頭痛」という講座を宗賀公民館で聴いてきた。


まず、一次性頭痛=治せる頭痛=偏頭痛や緊張型頭痛などの頭痛の原因がまだ完全には分かっていない頭痛に関して。
偏頭痛はそのメカニズムが解明されつつあり、脳の硬膜下にあり、顔や目、冷熱感を伝える三叉神経からストレスなどによりCGRP(ペプチドの一種)が放出され、中枢神経に痛みの信号が伝達される。近年CGRP関連抗体薬が開発され、偏頭痛を抑えられるようになってきた。この為、一次性頭痛は治せる頭痛になりつつある。

問題は二次性頭痛=危険な頭痛=他の病気に関連して発生する頭痛だ。いわゆる脳卒中がその大部分であるが、他にも脳腫瘍や髄膜炎なども原因となることがある。

脳卒中は大きく分けて、3類型。①脳梗塞 ②脳出血 ③くも膜下出血である。


脳卒中を予防するために、脳ドック、MRIによって脳の状態を知っておくことが大事。そして、脳卒中が疑われた時には躊躇せず救急車を呼び、専門医に見てもらうことが一番とのこと。


数年前、朝起きたら目がぐるぐる回り、吐き気がして、冷や汗が出た時、脳卒中を疑い、救急車を呼んだのは、一応正しい対処方法であったことを確認できた。もっとも検査結果は耳石による症状で、一安心したのだが、今後も類似の症状が出たら、躊躇せず救急搬送をお願いしよう。



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1/20㈪大寒の日と言うのに気温は8℃、2月末の気温だ。せっかくの好天、高温なので庭の梅の木の剪定を行う。まずは小梅から、


続いて南高梅の方も頑張ってやる。高所作業にならないように、高枝刈りを使って地上から切り落とす。


まだ、もう少し剪定した方がよさそうだが、もう疲れたので、おしまいに。切り落とした枝の処理が面倒くさいな。



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昨日言成地蔵尊に絵馬を奉納したのは、江戸時代にはこの地蔵尊参拝が盛んで、大層賑わっていたことを知ったからだ。
去年から始めた月一回の古文書読解講座、先日学習用に渡されたのが、下図の洗馬宿脇本陣志村家文書136号。


初心者の私にはほとんど読みこなせないのだが、先生や長く学習した人たちが読み下したのが、下図の文章である。


お役所筋の?山本与五郎から問屋の志村勘之丞宛に出された指示であるらしい。新福寺の言成地蔵尊の御開帳の際は、見世物や芝居はダメだが、渡り鳥稼業の営業や覗きからくりに関しては許可してやるので、心得違いのないよう興行せよとの指示かと思われる。

洗馬宿に関する史料のアーカイブとして、ブログに登録しておく。
はてさて、こんな文章を読めるようになるのは一体いつの事か?少なくともイタリア語やスペイン語よりは難しそうだ。



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都会の神社仏閣と違い参拝客の少ない地元の神社仏閣にはおみくじや絵馬の販売所は無い。かって一日に数百人の参拝客が居たという我が洗馬宿の言成地蔵尊とて例外ではない。そこで、自分のお願いを聞いていただくべく、絵馬の板を作ることにした。手元にあった表面の荒れた杉板にカンナを掛け、サンダーで磨いて、


家型に丸鋸で切断して、


絵馬の素板が完成した。


表に絵馬を描き、裏に願い事を書き、



参拝した方に、残りの絵馬板に、願い事を書いて、地元の神社仏閣を盛り上げてもらうべく、掲示用の板を作り、


言成地蔵尊と神明宮に奉納してきた。



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1/16㈭のオンベ巡り。地区としてはほぼ一体で細い川に隔てられているだけなのだが、江戸時代から別の行政区分だった、塩尻と松本の内田。でも習俗は同じなので、細い川を渡ると、荒井のオンベにぶち当たる。


今日は遠くまでよく見える。50km離れた爺ヶ岳、鹿島槍ヶ岳を背景に。


常念岳、大天井岳、


荒井のオンベを後に、法船寺の駐車場で一休み。よく見ると、この位置から穂高岳と槍ヶ岳が見えるよ。


少し下って花見の交差点へ。幼稚園児がオンベ見物を終えた所。


解説役をやっていた近所の方と談笑。ここは1/14に立てたとのこと。


ご近所で協力して、来年も立ててくださいとお話した後、横山へ。


ココはちょうど丘の上で風が強いので、毎年オンベが歪んでいる。周囲には吹き飛ばされた御幣や稲花。風に負けずに、頑張ってほしい。


今年も小正月に立てられる東山山麓、内田のオンベ、合計7本を見ることができた。来年はさらに復活するオンベが増えることを願って、自宅へと帰ったのであった。
走ったのはこんなコース30km。獲得標高は300m位だろうか?



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1/16㈭、午前中の老人体操教室を終わって疲れているが、無風、快晴なので、小正月に立てられる東山山麓、内田地区のおんべ見物に出発。
南原のオンベ、山麓線の南内田立石の信号を曲がったら正面にあるオンベなので、通りがかれば、否応なしに目に飛び込んでくる。


少し短くなったとは言え、良いね。

カラフルな稲花がたっぷり付いている。


久保在家には今年もなし。


もう柱も捨てたという中村を経由して、山ノ神へ。支柱に残る榊、道祖神前の御幣と復活に期待したいですね。


例年見られる立小路のオンベへ。


真っ白な常念岳を背景にすくっと立っている。


後には鉢伏山と美ヶ原



一度東山山麓線に下って、一応赤津をチェックしようとやってきたら、ありましたよオンベ。


コロナで中断していて、最後に見たのは2020年だから5年振りだよ。やぁ嬉しい、ウレシイ。通りかかったオバサンに話を聞いたら、再開はそれなりに大変だったらしい。



県道沿いの目立つ場所にあり、しかも松本平一望のロケーション。5年振りの復活おめでとう。


もう一度、県道から山方向に登り、原村へ。穂高、常念岳を正面に見据えている。


斜め正面、松本の市街地の向こうには遠く後立山連峰も見える。


コロナの間は何本かのオンベ立てが休止していたが、少しづつ復活してて嬉しい限り。晴れ渡った松本平を見下ろす位置に数日間姿を現してくれると、新年になったなぁとおもわせてくれるのである。
回ったのはこんなコース。松本市側の内田のオンベはまた明日記事UPの予定。



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