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逆風に抗して Against the wind,♪ we are running against the wind.♪
ここではないどこかへ。モモンガーの旅
2018年に横浜から信州にUターン
自転車と日々の生活を
綴ります。
 



3/1㈯の産業遺構見学会の下見、後半は傾斜が急になり、トロッコでは石灰岩を運べないので、鉄索=ケーブルリフトで採掘した石灰岩を降ろすルートを辿り、石切り場へと登るパート2である。下図の地図の右半分、緑色の部分である。(地図ダブルクリックで拡大可能な地図へ)

鉄索の出発点、ここにエンジン付きのウインチを設置し、110mの標高差を鉄索=ケーブルリフト(スキー場のリフトの簡易型を想像してほしい)にモッコをつけ、そこに石灰岩を入れて、トロッコ道終点まで運んだわけである。


急な斜面を這いながら、20mほど登り、鉄索の開始点を見下ろす。


逆に上の方を見上げると、鉄索が通ったルートがわずかに空いているのが分かる。


道なき道を2本の杖を頼りによじ登る。尾根に出て木々が途切れると、鉄索の終点の石垣が突然見えてきた。


鉄索上部終点下に辿り着き、後ろを振り返ると、この絶景。


洗馬の集落の向こうに白く輝く穂高連峰と常念岳が聳えている。

鉄索終点のあたりは平に開けていて、採石現場から鉄索まで石灰岩を運んだトロッコのレールが打ち捨てられていた。


ここは標高950m、鳴雷山山頂1092mの直下で、山頂まで水平距離で150mしかない。藪の向こうに石灰岩の採石現場が見える。広角レンズで収まりきらない広さだ。


大きな岩の割れ目にタガネを打ち込み、Φ4cm、長さ30cm位の穴を穿ち、そこにダイナマイトを押し込んで、爆破、小さくなった石灰岩をモッコに収めて、鉄索で降ろしたのだそうだ。



削岩機を使わなかったか聞いたら、手で穴を穿ったとのこと。


さらに左側に行くと、市民タイムスの記事に出ていた、数十年前の人身事故の現場だそうだ。爆破後の不安定な岩が崩れ、採掘員が一人死亡、数人が怪我をしたとのこと。しばし慰霊のお祈りをする。


石灰岩の採掘現場も見終わって、さぁ帰ろうと、手を伸ばした木には、、、


熊の爪痕、それもまだ新しい。冬眠覚めの時期でもあり、大人数で来ているので大丈夫とは思うもののギョッとする。最後に鉄索終点横の見晴らしの良い地点で集合写真を撮って、下山の途に就いたのであった。
帰り道で朝最初に訪れた社宅跡の下にあった石炭置場に寄ると、地面には60年前の良質な石炭がまだゴロゴロしていた。


往復で4.4kmなのに、標高差は220mと、かなりキツイ登山ではあったが、4月の陽気で風もなく、身近にあるのに全く知らなかった産業遺構を楽しくめぐる登山であった。



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四月の陽気となった3/1㈯、先日市民タイムスに掲載された洗馬の産業遺構である大怒田の石灰岩採掘の現場を酒井さんに案内してもらい、後日予定の見学会の為の地図、資料作成を行った。

全体の地図を下図に示すが、今回の記事は左半分の社宅、焼成場、トロッコ道の部分である。
(詳しい地図、拡大縮小、地点の詳細が分かる地図は下図をダブルクリックで)


ローソン脇から大怒田の谷に分け入る。太古の昔からあった田は荒れ果て始めている。


最初の分岐点の上が社宅のあった辺りだ。


平らな所が社宅のあった場所、そして正面の斜面上に左から四号炉~一号炉とあった。


四号炉


一号炉のレンガ積み。高さが2mほどあり、上部の穴から石炭と石灰岩を投入し、焼成し、出来上がった生石灰と残余物を下部の釜口から搔き出した。炉の上と搔き出した生石灰置場の上を覆う大きな屋根があったらしい。

  注記:石炭を使って生石灰を作る方法 
     石灰石と石炭(またはコークス)を一緒に1000℃程度に加熱し、
     石灰岩(
CaCO3)を還元熱分解により生石灰(CaO)とCO2にする。 
     化学反応式は
 CaCO3→CaO+CO2
     (生石灰は水分があると発熱化学反応し消石灰 Ca(OH)2となるので、雨除けが必要) 


社宅のあった辺りには井戸の跡あり、落ちないよう木材で覆われていた。
 


焼成炉のさらに上の斜面がトロッコ道の出発点でそこから等高線を斜めに横切り、緩やかに登るようにトロッコ道が続いていた。


途中、石灰岩の露頭横をトロッコ道が走っている。



トロッコ道の終点から少し下に下った場所から傾斜がきつくなり、トロッコを押して上げることが困難となるので、この場所に転路器があり、トロッコ道は複線となる。2つのトロッコをワイヤーで連結し、石灰岩を乗せたトロッコが下る力を利用して、空のトロッコをトロッコ道終点/鉄索下まで引き上げたのである。

 

国土地理院の地図の林道終点辺りが平になっていて、そこから上は急傾斜の斜面となる。この場所がトロッコ道の終点かつ鉄索の始点である。





洗馬の産業遺構その2へと続く >>>



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1967-10/1に発行された信濃教育 第971号 のP68~93に『芥川龍之介作「庭」の解釈とその題材をめぐって』という評論が載っており、筆者の高林市治さんが、父や万福寺の金井正俊住職から聞き取った話が載っている。今まであまり知らなかった話や再発見の話がのっているので、「庭」に関する史料としてアーカイブしておく。

【あまり知られていなかった話】
①小穴隆一の父、小穴唯一郎は志村巌の三男ではあるが、後妻(松本市中町万藤家より嫁す)の初めての子。徴兵を逃れる為?架空?の小穴家への養子と言うにしたとの風説ありとのこと。
②「庭」に伝法肌(ヤンチャ)と描かれた志村巌は、岡谷の茶屋本陣の今井家から養子として志村家に入り、明治22年~29年まで宗賀村の初代村長であった。豪傑/傍若無人でいくつかの逸話がある。例えば小松家の婚礼の帰りに酩酊し、馬の用意を命じたが、無かったので大男に跨って家に帰った。葬儀の精進落としでお寺様を差し置いて上座に座った。村有林の調査の役人に、この沢の名前はと聞かれ、適当に名前を付けて返答した。等々、、、
③志村巌の長男志村勘一は経済的に破綻し、間口6間一杯に建てられていた脇本陣の建屋を売り払った。(現在も移築された建物が安曇野三郷に残っている)その後、三男の小穴唯三郎が家を再建、子の小穴隆一が相続したが、その建物は昭和7年の洗馬大火で焼け、家の無い土地は松本の万藤家が管理していた。
④大火の後、庭や屋敷跡は20年ほど放置され、近所の人が畑を作ったりした。
⑤20年間の放置の間に、ひょうたん池の西側は防火用水池を掘った土砂で埋められ、東側だけが残っている。
⑥ひょうたん池にはせんげから水が落ち、脇本陣に泊まった御岳修験者が荒行を行った。
⑦洗馬大火の後、石灯篭等の庭石の多くは葛家に移された。閑園神霊の石碑は庭に埋もれていたものを建て直した。
⑧志村家の墓所は2ヶ所あり、一つは百瀬守が引継ぎ、もう一つは尾沢橋の横にある。

タグ 芥庭



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洗馬宿の近代史に関連する記事が最近市民タイムスに掲載された。著作権ウンヌンの問題は承知しながら、デジタルアーカイブとして、この記事を残しておかないと、どこかに埋もれてしまうことを恐れ、本ブログに収録しておく。(ゴメン、市民タイムスさん許して!)





新聞記事やそこに引用されている塩尻市誌にも記されていないし、レゾナックのHPにも言及されていないが、塩尻駅前に工場を構えている昭和電工⇒レゾナック塩尻工場は、1911年、この洗馬産の石灰岩と梓川水系の水力発電所(島々発電所や赤松発電所)の電力を使い、2000℃の高温に達する炭素電極電気炉でカーバイドを塩尻工場で生産した。カーバイドは水を加えればアセチレンガスを発生できるので、民生用として一昔前は夜店の照明などによく使われたが、大量に使われる産業用には、その強力な反応力を生かして、色々な化学物質の原料として便利に使われた。だが、洗馬産の石灰岩は生産量も少なく、純度もあまり高くなかった為、高度成長期には、その生産を終えた。

洗馬宿の歴史の一端を歴史に残す為、記事中の酒井さんと近日中に連絡を取り、暖かくなったら見学会などを組織できれば良いなと考えている。

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注記:
①私は石灰石の採掘場所は床尾だと思っていた。と言うのは、1965年の台風6号で石灰石採取の残余物=ズリが積みあがったものが崩れ、床尾で画家が死亡している災害があったからである。ところが、この記事で主要な採掘場所は洗馬の大怒田上流であることが分かった。
②平出の泉近くにある石灰岩の露頭は、私は鍾乳洞の陥没したものかとも思っていたのだが、記事によれば江戸時代の石灰岩採掘跡らしい。
③桔梗ヶ原ではブドウ栽培が盛んで最近は城戸ワインなどプレミアムの付くワインが生産されている。ひょっとして、石灰岩を含む土壌が鳴雷山から流れ出し、そのテロワールがワイン用ブドウの生産に大きな影響を与えているのではないか?
④近くの御手洗神社の石段がすべて石灰岩であり、どうしたわけかと思っていたが、同じ大怒田の数百mしか離れていない場所なので、良質でない石灰岩⇒石段としては利用価値ある廃材を使ったものでありそうだ。


⑤以下に1931年の地図と           2001年の地図を示す。
1931年地図には工場、住居と思われる個所あり。



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昨日言成地蔵尊に絵馬を奉納したのは、江戸時代にはこの地蔵尊参拝が盛んで、大層賑わっていたことを知ったからだ。
去年から始めた月一回の古文書読解講座、先日学習用に渡されたのが、下図の洗馬宿脇本陣志村家文書136号。


初心者の私にはほとんど読みこなせないのだが、先生や長く学習した人たちが読み下したのが、下図の文章である。


お役所筋の?山本与五郎から問屋の志村勘之丞宛に出された指示であるらしい。新福寺の言成地蔵尊の御開帳の際は、見世物や芝居はダメだが、渡り鳥稼業の営業や覗きからくりに関しては許可してやるので、心得違いのないよう興行せよとの指示かと思われる。

洗馬宿に関する史料のアーカイブとして、ブログに登録しておく。
はてさて、こんな文章を読めるようになるのは一体いつの事か?少なくともイタリア語やスペイン語よりは難しそうだ。



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アーカイブとして保存、洗馬宿の町割りを東を上、京方(南)を右にして書いた図。
元資料は長野県史第5巻 P925~P935

尚、宿の東側に関しては、復元された詳しい地図があるが、西側に関しては、最近出てきた志村家文書に虫食いだらけで、判別が難しい地図がある。



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宗賀小学校開校150周年に合わせて製作された、宗賀小の前身となった洗馬学校の模型を見学してきた。
洗馬学校の建物は手狭になったこともあり、売却移築され、無くなってしまったが、百数十年ほど前に建設されて時の写真から、図面を描き起こし、


紙で模型を試作し、


復元模型を作ったもの。


150年前、学制が発布された時に作られた学校としては立石清重が設計施工を担当した擬洋風建築の国宝開智学校が有名であるが、数年後に同じ立石清重によって設計施工された洗馬学校は面積こそ狭いものの、開智の2階建てに対し、3階建てであり、その頃の洗馬宿と周辺地域の教育に対する熱意を感じさせる建物である。


模型は内部の構造まで見られるようになっていて、


洗馬学校のシンボルであり、現在も洗馬学校の遺物として、唯一残る木曽義仲の馬を今井兼平が洗うシンボルマークもバルコニーの上に鎮座している。


私も、同じころ建てられた山辺学校の校舎に設けられた保育園に通っていたので、何か懐かしい気がする建物である。



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いよいよ秋が深まり、我が家の「庭」のダンコウバイも散り始めた。


地上は一面の黄色。


そしてモミジはもうほとんど散ってしまった。


でもそのおかげて、赤の絨毯が敷かれ、ツツジには季節外れの花が咲いた。


さて、冬を告げる雪が降るのは何時か?あまり降らないでくれると良いのだが。



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洗馬歴史同好会のNさんが1866年の慶応木曽騒動に関して説明文を作ってくれたので、アーカイブしておく。


画像でアーカイブの為、検索用のタグ
木曽騒動、世直し一揆、洗馬宿、慶応2年、神明宮、丸山左源太、笹屋伝右衛門、小沢庄右衛門、大和又兵衛門、野口庄三郎、豪商、米買い占め、皇女和宮



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我が家の庭は中山道が開通した400年前の少し後に造園されたと推定される。今から180年ほど前の嘉永2年(1849年)に出版された一種の旅行案内本、善光寺街道図会に「本陣の百瀬氏・志村氏の林泉は、中山道に稀なりとぞ。」と紹介され、庭の絵図が掲載されている。


この庭をモデルにした、芥川龍之介の小説「庭」では「それはこの宿の本陣に当る、中村と云ふ旧家の庭だつた。それが旧に復した後、まだ十年とたたない内に、今度は家ぐるみ破壊された。破壊された跡には停車場が建ち、停車場の前には小料理屋が出来た。」となっているのだが、洗馬駅建設によって破壊されたのは、この絵の上半分のみ。この絵の下半分、石組み渓流とひょうたん池(但しほぼ水無し)の部分は今も残っていて、想像力を逞しくすれば、昔の風景を推定することができる。





土砂で埋まって、普段は水の無い池も、大雨が降ると出現する。


芥庭



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奈良井と平沢での6/8㈯,9㈰の木曽漆器祭りに合わせて、例年通り、奈良井公民館に洗馬宿の展示をするというので、準備に出かけた。


記録の為、展示パネルを掲載しておく。
洗馬宿概要、洗馬歴史同好会紹介


広重の洗馬の夕月、洗馬学校


洗馬学校と脇本陣庭園、芥川龍之介の「庭」


肘掛け松、わかされ(追分)


新福寺、あふたの清水


言い成り地蔵、木曽騒動(丸山左源太)



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尾沢(オサワ)を構成する本沢と左沢の両方を軽トラで行けるところまでたどったので、今度は下流に戻って、まず野辺沢分岐へ。


かってはここに牧場があり、山菜などを採った記憶があるのだが、近年は塩尻市の堆肥製造工場になっているようで、入り口までしか入れない。


野辺沢は諦め、馬頭観音のあるところまで戻る。


宿場用水の取水口へと降りる道へ。この辺りは来たことがなかったのだが、意外にも開けた土地で、まだ水田が耕作されている。


ここが宿場用水の取水口。


大水が出ると、そのたびに石を積みなおす必要があるのだそうだ。今まで庭や畑の散水に宿場用水を利用させてもらっているが、こんな人目につかない作業によって支えられていたとは、恥ずかしながら知らなかった。


尾沢の探検はこのあたりで終わりにして、北隣の大怒田へ。こちらの谷の開口部は尾沢の半分程度、しかも流域面積が小さいので、自流の川は存在せず、谷の末端に湧き水が出て、小さな池があるのみ。昔はもう少し大きくて、スケートをやった場所とのこと。


続いて先日整備した御手洗神社を経由して、今日の軽トラ探検はおしまい。


走り回ったのはこんなコース。地図ダブルクリックで拡大可能な国土地理院地図へ。



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以前、400年前に洗馬宿が作られたのと同時に作られた宿場用水の川筋を辿る散歩をした。今回はその宿場用水の取水点をはじめ、尾沢川(「オサワ」と発音)の源流域を軽トラ探検するという。普段はクマが怖くて、山に入ることなどないのだが、千載一遇のチャンスと、軽トラの荷台に乗り込んで、半日探検してきた。尾沢は鳴雷山と小室山に囲まれた沢で、下流から野辺沢、左沢、本沢に分岐している。

上記の林野組合の地図と下図の今回探検した場所の地図を両方見ながら場所を確認できるようにした。下記地図はダブルクリックで拡大できる。

尾沢を遡ると、所々平になった場所があり、かっては田畑であったことが分かる。沢水の豊富なこの場所では、江戸時代に太刀や銅鏡が発見されたことから、太古より人が住んでいたと思われるのだが、もはや木々に覆われつつある。


左に行けば左沢、右に行けば本沢の分岐点に一の橋がある。


この清流でイワナが釣れるらしい。


右に曲がり、本沢を登ると、二の橋。


林道と川が近接し、道に石がゴロゴロしている。


はかん沢の近く、三の橋である。


やがて谷が深くなり、その横に石積みで護岸工事された立派な林道が続いている。


その理由はこれ、ここは本州製紙の社有林なのだそうだ。


地図に寄れば、ここの右、鋸沢を遡った所に、金廃鉱址があるというのだが、金と言うのは少し眉唾らしい。
少し広い場所、広小場にでたのだが、行く手は倒木で遮られている。


倒木を潜り抜け、名無沢の分岐で林道は終わるのだが、かって左側の名無沢に渡るためにあった四の橋は流されて、渡ることができない。


残念ながら、本沢の探検はここで終わり。


本沢を下り、今度は左沢を遡る。左沢の終点には小沢池がある。



歩く道は池の左側を回って、やがて鳴雷山の肩を越え霧訪山の方に登る尾沢峠へと続いているが、今日の探検はこの堤まで。この堤があるおかげで、宿場用水の水が途切れることなく流れているのだろう。しかし、静かだ!


堤の横には、かっての放水路があるが、現在は堤の水位を下げ、別のゲートから放流しているので、もう使われなくなっている? それとも余水路扱い?


記事が長くなったので、続きはまた明日UP。



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善光寺街道を洗馬宿から松本まで要所を回るツアーご一行様をご案内。まずは芥川の庭から。


続いて、洗馬の名前の言われとなった、あふたの清水へ。


温度一定の湧き水の下流に育つわさび畑にはちょうど花が咲いていた。



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洗馬宿の歴史DB/リポジトリとして、戦後~高度成長期の商工業地図を掲載しておく。
中心部、現在からは想像できないが、数多くの商店があった。


全体図



半世紀前、中山道沿いおよび中央線洗馬駅周辺に駐在所、郵便局、日本通運支店、農協、医院(2軒)、美容院、理髪店、飲食店、各種の商品を取り扱う商店が数十軒と、この町の中でほぼすべての生活関連の用件が完結する町であったことが解かる。
現在、街はずれに移転した郵便局を除き、これら50軒近くの店が消え去り、この図の範囲内に店や飲食店は皆無である。僅かに、19号線沿いに、飲食店とガソリンスタンド、コンビニがあるがあるのみ。中山道沿いは商業地から住宅街に姿を変えている。



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