マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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北椿尾の寒施行

2014年07月07日 07時18分07秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
寒施行の行事を初めて知ったのは平成19年1月のことだ。

奈良市北椿尾町の稲荷講の人たちの行事であった。

かつて筒井順慶の父親順昭が築城したと伝わる椿尾山城跡まで山歩き。

山頂の五社明神に下った大井戸池の傍の龍王社の祠や不動尊の前の祠にも供えていたアズキ入りの握りメシ。

アブラアゲも添える御供は竹の皮に置いていた。

山林、藪・・道なき道のケモノ道も行く。

講中とともについていかねば遭難してしまうような山道であった。

北椿尾町の稲荷講は6軒の営みであるが、施行する地は二手に別れる分離行動。

前回に同行したのは、4軒で行動される上の組であった。

2軒の下の組は上の組とは異なる地に向かうだけに、一度に拝見することはできない。

全容を知るには2年もかかるのである。

前回に取材させていただいた北椿尾の寒施行は平成25年10月26日~12月8日までの期間に奈良県立民俗博物館の玄関ホールで開催された「私がとらえた大和の民俗(3)」にテーマ「センギョ」で紹介させてもらった。

10月27日に行われた「写真家トーク 祭りの写真を撮る」にはご夫婦で聴講もしてくださった。

ありがたいことである。

そのお礼に伺った講中の一人に願った下の組の寒施行である。

行事の日程を決められるのは、講中の初集会のヤドの営みのときだ。

この年の実施日が決まったと連絡をもらって出かけた北椿尾町は37、8戸の集落。

下から出・小知山(こちやま)・北・堂・大久保・大磯の6垣内からなる。

上の組の4軒が大久保、大磯垣内。

下の組の2軒は出・小知山・北・堂のようだ。

上の組より一時間早く出発する下の組。

北垣内在住の講中の家より奥の藪地に向けて出発した。

この日は小雨そぼ降る日だった。

雨中に傘をさして出かける二人の講中。

ゴム長靴が必須の道中である。

上の組と同様に出かける地は山の中。

同行する講中も見誤るぐらいの道は森の中の藪こぎ。

最初に訪れた地には大きな石塔があった。

「正一位 光姫大明神」。

左右に「高城大明神」、「青髭大明神」の文字がある石塔は、いつ、どなたが建之されたのか判らない。

お爺さん、先代の時代には既にあったと云う石塔。

少なくとも80年以上は経っているであろうと話す。

かつて、稲荷講は倍ほどの講員がおられたそうだが、村を出るとか、辞退する家もあって、現在は6軒で行っていると云う北椿尾町の稲荷講。

かつては家の庭先にお稲荷さんを祀っていた。

その人たちが稲荷講を組織された。

その講ができる前から「正一位 大明神」とする稲荷神の石塔が建っていたと話す。



下の組の講員は、それぞれが持ちよった竹の皮に包んだアズキメシを供える。

アズキメシはダシジャコを振りかけていた。



持ってきたローソクを大明神石塔前に生えている細い木枝に挿す。

それがローソク立てだと云う自然に生えた木枝である。

火を灯して手を合わせる二人の講員。

雨天の取材では、レンズも滴で濡れてしまう。



下の組がでかけるもう1カ所はさらに下って椿尾橋を左に曲がる。

右に向かえば、正暦寺となる三差路である。

十数メートルも行けば、「正一位 云々」の刻印がある石標が見つかった。

そこからは、民家横にある道を登っていく。

「年寄りには堪える」と云う急な坂道だ。



一の鳥居、二の鳥居を潜っていけば、4社の祠が祭られた地に着く。

右から「末廣大明神」、「舎人大明神」。

左の2社は判別できなかったが、いずれもお稲荷さんを祀っているようだ。

覆屋は、北椿尾町や菩提山町、高樋町、虚空蔵町の住民ではない「舎人講」の人たちが建てたと話す講中。

その人たちはお参りに来られているが、お供えが見当たらないことからどうやら寒施行はされていないようだ。

着いて、すぐに山に生えている小枝を採取する。

「箸にするんや」と云っていたが、それは供えるわけでもなく持ってきたアズキメシを4社に分けるために使う。

次に採取したのは葉付きの小枝だ。

その木はビシャコ。



アズキメシを供える皿にする。

そうしてから、またもや小枝を取ってきた。

ローソク立てに使う小枝である。

上の組では見られなかった自然に生えている枝を利用する施行の供え方。

いかにも民俗っぽい作法に感動する。



右側の「末廣大明神」から順に分けたアズキメシを供えていく。

左端の社だけは竹の皮ごと供えていた。



二人揃って手を合わせた寒施行のお参りは一時間余り。

上の組が出発する時間帯には間に合わなかった。

車を停められる場所から歩いて20分ほどの処に停車していた軽トラを発見するも山の中だ。



そこに着く前の山道の一部が崩れていた。

山は砂地であった。

それより上は岩石もある。

かつて耕作していた田畑は石組みもしていた。

荒れた地は講中でさえ迷うこともあると云う山中。



追っかけてもどこをどう向かっているのか判らない椿尾山城跡はここより右の方角だ。

見つけて同行することは不可能である。

(H26. 1.26 EOS40D撮影)


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