六斎念仏は空也を始祖として発生したと伝えられ、県内では奈良市八島町と並んで東安堵の2地域が最も伝承・実践されている。
念仏は途絶えたものの収録したカセットテープが唱える念仏に合わせて鉦を打つ地域に奈良市池田町、大和郡山市白土町・大江町、桜井市萱森がある。
講中がお一人になったことからやむなく中断している御所市東佐味もある。
『奈良県の民俗芸能-奈良県民俗芸能緊急調査報告書-』によれば、かつて奈良市には八島町・池田町の他に藤原町、山町、法華寺町、佐紀東町、北椿尾町、大安寺町、富雄中、法蓮町、鹿野園町、横井町、三条町、西大寺、秋篠町、古市町、北之庄町、大池水郷、忍辱山町、西九条町、紀寺町、瓦町、藤之木町が・・・。
大和郡山市では白土町、大江町の他、今国府町、額田部北町、額田部南町、長安寺町、柏木町、上三橋町、横田町、小林町、小泉町。
近年の調査では井戸野町にもあったことが判った。
生駒市は乙田、小瀬、高山。
安堵町は東安堵の他に西安堵、岡崎。
斑鳩町は西里。
川西町は下永。
御所市は東佐味の他、西佐味、高天、伏見。五條市は小和町、久留野町、近内町、出屋敷町、居殿町、住川町、北山町、岡町・・・に講中の存在があった。
いずれも大正時代から昭和戦後まであったと伝えられている。
これら講中があったのは融通念仏宗派の地域だ。
尤も地区全戸が融通念仏宗派でなく、宗派以外の檀家もあるのだがが・・・。
平成18年、19年の取材以来、久しぶりの訪問となった東安堵の大寶寺六斎講。
東安堵の融通念仏宗檀家は103戸。
講員は昔も今も8人であるが、顔ぶれは数人が入れ替っていた。
この日は早朝から100戸余りの檀家参りをしていた。
新仏の家も参る檀家参りは休憩を挟むことなく昼過ぎに高塚にやってくる。
高塚(墳丘)と呼ばれる地は集落の南側。
西名阪国道下の信号付近になる南垣内。
地区が案内する立て看板によれば、塚に大きな栴檀の木があった。
だが、昭和28年の台風で倒れたと伝える。木の根元に大石があり、その下に昔、タカ狩りをした殿さんがタカを埋めたからタカ塚とも、或いは聖徳太子が可愛がったタカを埋めたとか・・・書いていた。
1991年(平成3年)安堵町史編纂委員会発刊『安堵町史 Vol.史料編 下巻』に『明治七年八月 鷹塚並道満墳取調書控』があるようだ。
すべての檀家参りを済ませた黒衣に袈裟姿の講中は高塚にある観音堂の前にゴザを敷いて座る。
例年、14時ぐらいになるそうだ。
予め花を立てていた観音堂。
ローソクと線香に火を点けてから始める六斎念仏。
始めようとすれば風が吹いてローソクの火が消えてしまう。
六斎鉦を叩きながら念仏を唱える。
念仏はシンバンド(新坂東)と融通回向の2曲だ。
1曲目はおよそ7分間のシンバンド(新坂東)。
打つ鉦はすべて新調されているので新しいが、享保十五年(1730)六月九日が刻印された鉦が伝わる。
続けて2曲目の融通回向を唱える。
高塚の前は公道で往来する車も多い。
ときには信号待ちの車もあった。
鉦の音を聞いて車窓から眺める人もいたが「何してんのやろ」というような感じ。
きょとんとした顔で眺めていた。この日の気温は33度。
汗びっしょりになるカンカン照り。
講中はタオルで汗をぬぐいながら念仏を唱えていた。
(H26. 8.14 EOS40D撮影)
念仏は途絶えたものの収録したカセットテープが唱える念仏に合わせて鉦を打つ地域に奈良市池田町、大和郡山市白土町・大江町、桜井市萱森がある。
講中がお一人になったことからやむなく中断している御所市東佐味もある。
『奈良県の民俗芸能-奈良県民俗芸能緊急調査報告書-』によれば、かつて奈良市には八島町・池田町の他に藤原町、山町、法華寺町、佐紀東町、北椿尾町、大安寺町、富雄中、法蓮町、鹿野園町、横井町、三条町、西大寺、秋篠町、古市町、北之庄町、大池水郷、忍辱山町、西九条町、紀寺町、瓦町、藤之木町が・・・。
大和郡山市では白土町、大江町の他、今国府町、額田部北町、額田部南町、長安寺町、柏木町、上三橋町、横田町、小林町、小泉町。
近年の調査では井戸野町にもあったことが判った。
生駒市は乙田、小瀬、高山。
安堵町は東安堵の他に西安堵、岡崎。
斑鳩町は西里。
川西町は下永。
御所市は東佐味の他、西佐味、高天、伏見。五條市は小和町、久留野町、近内町、出屋敷町、居殿町、住川町、北山町、岡町・・・に講中の存在があった。
いずれも大正時代から昭和戦後まであったと伝えられている。
これら講中があったのは融通念仏宗派の地域だ。
尤も地区全戸が融通念仏宗派でなく、宗派以外の檀家もあるのだがが・・・。
平成18年、19年の取材以来、久しぶりの訪問となった東安堵の大寶寺六斎講。
東安堵の融通念仏宗檀家は103戸。
講員は昔も今も8人であるが、顔ぶれは数人が入れ替っていた。
この日は早朝から100戸余りの檀家参りをしていた。
新仏の家も参る檀家参りは休憩を挟むことなく昼過ぎに高塚にやってくる。
高塚(墳丘)と呼ばれる地は集落の南側。
西名阪国道下の信号付近になる南垣内。
地区が案内する立て看板によれば、塚に大きな栴檀の木があった。
だが、昭和28年の台風で倒れたと伝える。木の根元に大石があり、その下に昔、タカ狩りをした殿さんがタカを埋めたからタカ塚とも、或いは聖徳太子が可愛がったタカを埋めたとか・・・書いていた。
1991年(平成3年)安堵町史編纂委員会発刊『安堵町史 Vol.史料編 下巻』に『明治七年八月 鷹塚並道満墳取調書控』があるようだ。
すべての檀家参りを済ませた黒衣に袈裟姿の講中は高塚にある観音堂の前にゴザを敷いて座る。
例年、14時ぐらいになるそうだ。
予め花を立てていた観音堂。
ローソクと線香に火を点けてから始める六斎念仏。
始めようとすれば風が吹いてローソクの火が消えてしまう。
六斎鉦を叩きながら念仏を唱える。
念仏はシンバンド(新坂東)と融通回向の2曲だ。
1曲目はおよそ7分間のシンバンド(新坂東)。
打つ鉦はすべて新調されているので新しいが、享保十五年(1730)六月九日が刻印された鉦が伝わる。
続けて2曲目の融通回向を唱える。
高塚の前は公道で往来する車も多い。
ときには信号待ちの車もあった。
鉦の音を聞いて車窓から眺める人もいたが「何してんのやろ」というような感じ。
きょとんとした顔で眺めていた。この日の気温は33度。
汗びっしょりになるカンカン照り。
講中はタオルで汗をぬぐいながら念仏を唱えていた。
(H26. 8.14 EOS40D撮影)