私は前期高齢者寸前男である。
パリオリンピックも折り返しだという。
柔道を中心に日本のメダルラッシュも続いている。
多分、普通の人より「スポーツ好き」を自認している私としては・・・。
いま批判にさらされている「柔道の判定」などは、前回どころか前々回のオリンピックの時に予想していた通りである。
「柔道」が「JUDO」になったことも、その頃から危惧していた通りだ。
なにより、スポーツ全体がすでに「形を変えた戦争」に近い状態になっている。
その成績は経済や外交と同じように「国の威信」を示す絶好のモノなのだから。
・・・「大げさな」とおもう貴兄も多かろう。
しかし、メダルの総数票を観てみればその上位の国が世界の中心に国になっていることが一目瞭然。
どのスポーツも世界規模の統一団体が組織され、まさに「代理戦争的」なルール設定を含む団体運営が行われている。
JUDO(柔道にあらず)は、ヨーロッパでもフランスを中心に人気の競技であり、各国が大会における自国選手の十分な活躍のために「政治力」を使って主導権を握ろうとしている。
日本人にとって単純な「スポーツ」というものは、ある意味「存在しない」といえる。
すべてのスポーツに「精神性」を加味した「〇〇道」が名乗りはしないが存在している気がする。
関係ないと思われるかもしれないが、ワールドカップ等々の世界大会の日本チームの使用したロッカールームの「キレイさ」などは、日本人の精神性にどこか繋がっていると私は思うのだ。
「トイレの神様」って歌知ってる?どこかそれに似てるんだよね。
世界的に公共のトイレが「汚い」ことと、どこかリンクしている気がする。
結局「人間の主観による勝負判定」がおこなわれるのスポーツは「今回のオリンピックのような混乱」が未来永劫正されないだろう。
各国の国民性もだいぶ影響する。
当然のごとく「開催国の優勢」も大きく影響し続けるだろうしね。
オリンピックがこれからも続いていく中で、こうした「人間の曖昧さを含む判定」がどの程度残っていくのは大変興味深い。
って、あと何回オリンピックが観れるかなぁって感じだけれど。
今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんもオリンピックが単純な「スポーツの祭典」ではないことに気が付きますように。
May
JUDO以外の競技では逆にビデオ判定を導入したがゆえに「?」の場合もあった。
サッカーの日本vsスペインの試合のように「ビデオ判定を導入したがゆえ」の珍判定もある。(「細谷の同点ゴール」)
サッカールールの本質から外れているような判定と思うのはわたしだけだろうか・・・。
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