私は初老男である。
アメリカ大統領選挙の結果に、デモが起きている。
韓国でも朴大統領の退陣を求めて、デモが起きている。
日本でもちょっと前(6月5日前後)だが、安保法案反対で国会議事堂前に4万人がデモに参加した。
私も地元であった小さなデモであったが参加した。
なぜ、こんなことを記したかというと・・・・。
幾つかのブログで
「デモなどなんの意味もない」
とUpしている方がいたからだ。
「民主主義において、実績は『選挙に勝つ』ことだけ」「デモの途中で国旗を燃やしたりするのは『違法』」等々
デモに参加してみて思うのだが・・・・。
あれは、中途半端な声を上げていると「恥ずかしいだけ」である。
その中でも「大声」を上げないと、だんだん自分のしていることまで「恥ずかしいこと」に思えてくる。
そして、その「大声を上げる」ことができるのは、デモの目的を理解し賛同していることが前提になる。
目的に賛同している程度ならいいが、ヘタをすると「怒り」を感じて参加している場合もある。
すると、ついつい前出の「違法なこと」になったりもする。
思うのだが・・・・前出のブログ主の方は、多分「デモの参加」したことがないのではないだろうか?
まあ「デモ」というようなものでない形で「自分」を表現する。と言いたいのであろう。
参加していれば、そのことを単純に「民主主義」がどうであるとか「違法である」とかの言葉は出てこないはずだ。
人間の「理性」というものは、とてつもなく大切なもので全世界の平静はそれによって保たれている。
しかし、人間というのは「精神的な発露」というようなものでしか表現できないことがある。
たしかに、今の世の中「デモ」によって為政者が考えを変えることは、ほとんどないだろう。
特に今の日本においては・・・・・。
だからと言って、デモを誰もやらなくなったら・・・・・。
物わかりの良い人ばかりの世の中は、さぞ「平和」で「おもしろくない」だろう。
だいいち、それは本当に「正しい幸せ」な状態なのだろうか?
今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも、物わかりのいいだけの人になりませんように。
May
だいぶ的外れなことを示すが・・・・。つまり、明治維新は「徳川幕府を倒さなくてもできた」ということと、デモに意味がないということは意味的には「かなり近い」ことになる。