<平成>が終わります、と告げる祝日の朝。
テレビのニュース番組を眺めている。
<平成>のおよそ三十年間を振り返ったイメージは、至極、ぼんやりしたものだったな、と僕は思い、食事の席でそう口にした。
幸子はそれを聞くと、いやいや、<平成>は災害や事件が多かったし、海外でも戦争やテロが悲惨だったでしょ、と苺ジャムを塗ったトーストをかじりながら僕の言葉をあらためる。
そうか、と思う。
僕も幸子も、今年で四十歳の同い年。僕らは思春期と、そして青年期とを<平成>の時代にすっぽり包まれて生きてきた。幸子の言うとおり、社会では数えきれないくらいの陰惨な事件が起こってきたし、僕らはたまたま被災することをまぬがれはしたけれど、大震災と呼ばれる大災害は二度も発生した。そういった横綱級のニュース見出しになる大きなものごととは別ものの日常生活レベルでは、しょぼくれていく経済とありふれたものになっていく人々の孤独とを両軸にして、この期間、社会は回ってきたように感じる。
みんな必死に、そんな回る社会の球体上を激走する自動車を運転して、ハンドルをとられてコースアウトしたり、妙なものを踏んでパンクしたりなどしてリタイアしないように注意深く目を凝らし、絶えず手足を動かしながら、その道の上、頭上の満天の星すらほとんど見上げずに百万キロを超えてぐるぐると走り続けてきた。
言うなれば、<平成>は耐久レースだったのかもしれない。
幸子に、それらの考えをかいつまんで伝えると、でも、と濁す。そして、彼女はいつもの大きなハートマートがプリントされたマグカップを口に運び、ブラックのコーヒーを啜った。
「終わっていくものにあまり興味はないのよ、私には」
それは余韻をともなって、しばらくの間、僕らの回りを漂った。コーヒーの香ばしい匂いとともに。
テレビではニュースが終わり、はつらつとした笑顔の女優が画面いっぱいに映し出された朝ドラを放送しはじめた。テレビの脇には、昨夜二人で借りてきたばかりの旧作映画のDVD五枚が入った袋が置かれていて、僕は指さした。
「そういえば、DVDやブルーレイって<平成>に生まれた大発明のひとつだよね。ビデオテープにくらべて画質も音質も大幅によくなった。<平成>は終わっていくけれど、<平成>に生まれたものは今後も続いていく」
「そうね。今回借りてきたDVDの中身のほうは<平成>より昔に作られた古いものばかりだけれど」
「技術は続いていくんだ。脈々と引き継がれていく。<平成>時代に生まれた技術は未来の礎になっていくんだよ」
幸子がこちらを見ながら黙っているので僕はさらに続ける。
「そう気付いてみると、終わっていく<平成>の文字とその空気感に対してだけは、やっぱり僕としてはぼんやりしたものとして感じられるな。<平成>という時代、その名前だけがこれからも続いていくことなく、ここで終わりだもんね。実体としてはなにも終わっていくことはないのに、一区切りだもの」
「それはそうよ。時代の象徴として精一杯勤めてこられた天皇が退位なさるんだからね。大きな一区切りでしょう」
テーブルに置かれた幸子のスマホが、ブブブブ、と震えたが、彼女はまるでなにも気付いていないかのようにトーストをかじり、横目で朝ドラを眺め続けている。
ああ、そうだったか、と思いあたる。それは、インターネットも<平成>の技術だったってことにだ。厳密には、<平成>に生まれた技術ではなくて<平成>に一般へと普及した技術、そして、数多の技術と同じように、<平成>が終わってもなお未来へ続いていく技術。
スマホやパソコンの画面に向かってするインターネット。ウェブのブラウズや、もしくやゲームやSNSなどのインターネットに拠ったサービスの享受。それらの時間、僕らは画面を見てただぼんやりしてはいないだろうか、とぼんやりした頭に浮かんだ。
「幸子、インターネットもだ、<平成>の技術」
「そうだったわね。インターネットなんてふつうすぎて、そうだとは気付かなかった」
「ねえねえ。インターネットに時間を使っているときって、みんなぼんやりしてると思わない? たいした収穫もないことに時間ばかりどんどん吸い込まれていく感じ」
「わたしは小学生のとき、テレビゲームをしてて親によくそういわれたものよ。でも、ぼんやりしてるというより、夢中になってるんじゃない? 」
「うん、そうだね。夢中になっている時間もある。でも、ぼんやりしてると言っていい種類の時間もちゃんとあって、それってけっこうなものだろ?その時間の長さよ……」と僕は過去に流れ去ったかなりの量の個人的なぼんやりとした時間に思いを馳せた。
ぼんやりした時間を過ごすことは、幸せなんだろうか? 僕はどうなのだろう、幸子はどうなのだろう。
SNSで見ず知らずの人たちも含めたいろいろな人たちとやりとりをすること。やりとりをしなくても、その文章を読むこと。結局、人は人を求めている。プライバシーをお互いに大事にしたいから、できるだけ無関心でいようと孤独を深めてきた現代の僕らは、でも、そのプライバシーをできるだけ保ったまま、他人と関心をもって結びつきたい矛盾のような欲求を抱えている。
どうしてぼんやりするのを好むのか。いや、好んでいるわけではなくて、関心をもちたいのに、戸惑いや躊躇によるどっちつかずさが、みんなをぼんやりさせるのかもしれない。
ただ、プラットフォームという名のネットの奥底で、個人のプライバシーがどんどん露わにされ、収集されていくことを、僕らは実感しない。想像が及ばないのだろうとも思うし、もはや、あまり考えたくもない。
テレビでは朝ドラが終わり、出演者たちがざっくばらんに話をするバラエティショーへと番組は変わっていった。幸子が二杯目のコーヒーを空になったカップへ注ぎにキッチンへと立ち、ほどなくして居間のテーブルに戻ってきた。
僕と幸子が知り合ったのはインターネット。ご覧のように、今じゃ狭いアパートの一室で同棲している。近いうちに結婚するかもしれない。そんな予感はある。
SNSで、カポーティの『草の竪琴』について長文で熱い内容を語っていたのが幸子だった。コミュニケーションの本質をこの作品は教えてくれます、と。
それを読んだときの僕の嬉しさったらない。わかるかな。僕もカポーティが、そして『草の竪琴』が特に好きだったからだ。会ってみてわかったのだけれど、幸子は意外とクールでシニカルなものの見方をする女性だった。そして、どこか疲れて見えた。
そんな幸子の目に僕はどう映ったか。カポーティが好きだというわりに、話をしてみれば教養は浅いし読書量は少なくて幻滅しただろう。
でも、なぜか気があった。お互いに淋しかったからなのかな、と振り返ればそんな気がしてくる。
なにも、<平成>が終わっても続いていくのは技術だけじゃない。僕らの生活だって続いていく。積み重ねられていく。頼りなげではあっても、僕と幸子だってたぶん、いっしょに未来へと続いていくのだ。
終わっていくものにあまり興味はないのよ、とさっき幸子は言った。
ちゃんと整理がすんでから終わっていくもの、整理がすまないまま終わっていくものの二種類があると思う。整理がまだなのに終わってしまって、その土台にまた築かれるものもある。足場は心もとないはずだ。それは心の中も、現実の中のたとえば建物だって同じなんじゃないだろうか。そして、続いていくことも。
幸子はいつしか、足の爪をパチンパチンと切っていた。ちょっとうつむいたときの幸子の顔は僕のお気にいりのひとつだ。伏せた目もすてきだ。ねえ、幸子、と声をかける。
「今夜はワインでも開けようか? あとでいっしょに買いに行かない? 」
「どうして? 」
「この際、いっしょに<平成>をできるだけきれいにたたんでみることにしようよ。飲みながらさ。悪くないと思うよ」
「いやよ」と幸子はつれない。顔をあげることなく、そのまま足の爪にやすりをかけはじめた。
「そう言わずに。ね、サービスするから、たんまりと」昔の時代劇にでてくる商人みたいにもみ手すると、
「なんのサービスよ」と幸子は笑い、わかったわ、と了承してくれた。
今日は一日中快晴のようだし、窓から月を眺めながら飲めもできそうだ。あ、新月じゃなきゃいいけど、と最近まったく月を気にしたことがなかったことに気付いた。そりゃそうか、僕だって満天の星空さえ見上げない<平成>の民の一人だもの。
幸子が洗い物を始めたので、僕は洗濯機を回した。そうやって、いつもの休日が幕を開ける。いったん手を止めた幸子が、小さなオーディオデッキにCDをセットして音楽を流し始めた。それはテイラー・スウィフトの『1989』だった。幸子にとっても、急に湧いてでた今夜の予定がまんざらでもないのかもしれないな、と僕は思った。
【了】