Fish On The Boat

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『南極越冬記』

2011-01-23 14:49:38 | 読書。
読書。
『南極越冬記』 西堀栄三郎
を読んだ。

1957年2月~1958年2月までの南極第一次越冬隊の話。
越冬隊隊長による、自身の日誌やメモなどをまとめて作った本です。

この西堀栄三郎という人は、年配の人ならば知っている人が多いと思いますが、
今西錦司、桑原武夫、梅棹忠夫といった人と交流のある、
当時の日本の知の世界の中心にいた人のようですね。
彼ら、みんな、冒険野郎の一面を持っています。特に登山。

戦後の貧しい時期ですが、国際地球観測年という世界的なプロジェクトに
日本は参加することになったようです。ちょっと調べてみると、
国民から義捐金を募ったりしていたことがわかります。
なので、越冬隊の責任者でありこの本の著者である西堀さんは、
国民の期待を背負っているんだから、それを自覚してしっかりした成果をあげたい、と
堅くて真っ直ぐな決意を抱き、それをずっと最後まで持ち続けます。
しかし、隊員たちの多くは夜になると麻雀にあけくれて、西堀さんは何度とため息をもらします。
西堀さんの気持ちはわからないでもないけれど、読んでいるとちょっと、というかけっこう
堅い考えだなと思わせられるところがあります。映画は見るにしても、小説の類は好きではないし、
マージャンを嫌悪し、パチンコなどの勝負事にも興味がなく、
自ら「娯楽に興味がない」と言っています。
これで西堀さんが自分の価値観以外認めなかったり、
強引な布教のように、他の隊員に考え方を押し広めようと
していたならば、越冬隊はバラバラもいいところの、
人の集まりとしては最悪なことになっていたことでしょう。
西堀さんは、自分のわからない部分でも、それを認めるというか、尊重しますね。
そういうところは、読んでいて、自分も見習おうと思いました。

越冬記ですから、簡単にいえば日記です。
何月何日何をしたという記述などから、各隊員の性格や役割がスナップ写真のように、
多くは彼らの一面や一瞬を切りぬいたような形で書かれています。
そういうのは読み手の想像力を喚起するものです。
犬係の菊池隊員はほんとうに犬想いなんだなぁ、だとか、
コックの砂田隊員の苦心、プロ根性が垣間見えたり、
よく名前が出てきて、トリックスターめいた隊員がいたり、
なかなかに面白く構成されたメンバーであることが読めてきますし、
そこは著者の西堀さんの目によって見透かされ色づけされた隊員の描写ですから、
著者が良い目をしているということなのでしょう。

本当は厳しいのだろうけれど、この本を読んでいるぶんには、
ゆるそうな生活を思い浮かべてしまう。
アホなこともしてますし、失敗もしている。
もう少し気をつかえばいいのに、と思わせられるところもありますが、
そういうところこそ、古い時代なのでしょうね、
気を使いません。
たとえば、火災が出るのですが、それでも、火災の原因になりうるような
タバコはやめられんとか書いてあります。
大体、この西堀さんは、南極に来る前に火災こそが一番怖いと委員会かなにかで
喋っていたそうなんですね。だったら、禁煙を条件にいれればいいじゃないかって、
今だったら言うでしょう?そこが、違うところですよね。
逆に、そういうところに代表されるように、ゆるい部分がけっこうあるのです。
だから、こういう過酷な条件下での生活にも隊員たちは気持ちに余裕を持って
臨むことができたのではないかなぁと思います。

この時代の彼らと、今の時代の僕らを、「おにぎり」に喩えてみましょう。
彼らがおにぎりだったならば、米も具も品質は粗末かもしれない、
でも、握られかたが絶妙なのです。ゆるくてボロボロ崩れてしまうことも無く、
押し寿司みたいなのでもなく、適度に空気も一緒に握られている、そういうおにぎりだと思う。
対して、僕らがおにぎりだったならば、高級な米と具を使って握るのですが、
どういうわけか力が入りすぎて、押し寿司みたいなぐちゃっと握って
隙間の無いおにぎりだったりしないでしょうか。
まぁ、極端な話ですけれど。

それと、アメリカの南極観測隊が1937,8年頃だったか40年だったかに使った
「スノー・クルーザー」の話が書かれているのですが、これが可笑しいです。
WEBで調べてもSFのしか出てこないので(英語のページは出てきますが)、
この本を読んでみてください。アメリカ人らしいと言ったら失礼かもしれないけれど、
ビッグなことを考えるのは素晴らしいにしても、ちょっと地に足がついていない失敗が
ほほえましいです。いや、その…、僕は「アホだ」と思って笑ったけども。
やっぱなんていうか、アメリカ人は、押せ押せのパワー偏重傾向の思考があります。

南極の一年はさぞや何もないことだろうと想像してしまうものですが、
人間が11人も暮していればドラマが生まれるものでしょう。
「旅行」と呼ばれる観測探検だとかがたびたびおこなわれますし、
トラブルやブリザードに見舞われる中でのそれへの対処ややりすごす様子、
心理は面白いです。
人々の営みっていうもの自体が面白いんですよ、きっと。
マージャンが流行っていても、せっせと生活しているさま、そして、
その構成単位が11人というコンパクトさが、この越冬記に対して
親近感を持って読ませる要素になっているでしょう。

80年代の初めごろにヒットした映画『南極物語』は、この第一次越冬隊のために働いた
タローとジローのお話です。かれらの名前はちょこっと出てきます。

戦後復興まもない時期に、外国と共同のプロジェクトとして南極観測をやったことは、
当時、国民の興味と期待の的だったようです。
だから、『南極物語』もヒットしたのでしょうね。
すごくローカルチックなというか、マイノリティであるはずのものが、
国民に共有されていたような感じがします。
まだまだ国内の意識が多様化されていなかったからかもしれない。
多様化された中での話題の優先順位というものこそ、
客観的であって、そこでの順位の高いものにはうっすらとした深層心理的なものが反映されていたり、
小さな公約数的なものが反映されていたりする度合いが強いと個人的に思うのです。
しかし、この第一次越冬隊の時期の日本は、みながとても主観的だったという見え方もしますし、
きっと話題のスケールがかつてなかったほどのものであり、そのために、
南極をみなが顕微鏡で覗いて見ているくらいに、些細なことでも大きな情報として感じたのかもしれない。
情報が少ない時期の国民は主観的になり、情報があふれんばかりの時期の国民は客観的になる…、
これは一つの仮説ですかね。

…、とここらへん、書きながら考えると、思考の改変が改行ごとに浮き彫りになります…。

えーと、あえてこの極寒の季節にこの『南極越冬記』を読んでみたのでした。
イメージしやすいでしょう、寒さが。だからこそ感情移入しやすいでしょう、彼らに。
本の帯に書いてありますが、「アンコール復刊」した本だそうです。
さすが、それだけのことはあって面白いので、時間のある方は是非手にとってみてください。

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