もう三年目になっていました。じいちゃんの癌闘病生活。
幾度となくピンチを乗り越え、リハビリを重ね、今年の6月はふうちゃんと北海道旅行も実現させました。
昨年の12月から意識的に頻繁に帰国して、様子をこの目で見ること、一緒の時間を作ることにしていました。なので、一回は子供達と、一回は家族全員でじいちゃんに会いに行きました。また今度、はないかもしれないと毎回思いながら。
それでも、次はないと思っていても、必ず「またね!」と言って、足腰が不自由になっていたこの7月も玄関先まで出てきてくれて手を振って車を見送ってくれていました。
その知らせはユイのお迎えに行った車の中でした。
義弟のさとしくんからの電話。表示を見ただけで何を伝えられるのか、わかりすぎるほどわかって、その後、どうやって家まで運転できたのか謎なのですが、止まらない涙と背中をさすってくれるユイの手が暖かかったことはしっかり覚えています。
おそらく、出し切った涙のおかげなのか、その後の行動は我ながら冷静で速く、翌日のフライトを抑え、仕事の調整をして、帰国。
冬からこれが5回目の帰国になりましたが、5回目はじいちゃんがいない帰国でした。
数年前に洗礼を受けたじいちゃんの葬儀ミサは、所属していた合唱団の方々、教会の方々、職場の同期の方々など、実に温かい雰囲気のミサ、そしてほぼ音楽葬のように音楽に囲まれたお別れ会になりました。
ここにじいちゃんがいたら喜んだだろうなぁとあり得ない想像までしてしまうくらい、本当に心こもった親密な葬儀でした。
遠く離れて住んでいる私は、親との別れがこういう形で来ることは分かっていて、その時自分が後悔することだけは絶対したくないと思って今でも過ごしています。つまり、会いに行けばよかった、話せばよかった、の類いは避けなければならない。その後一生後悔することになるので。
なので、病気になる前から、正確には8年前からいざという時の対処の仕方などを積極的にじいちゃんとしてきました。きっかけは2011年の東日本大震災。
あのとき、親と万が一連絡がつかない状況になったとき、彼らの友人関係などを知っておかないといけないな、と思い、帰国時に緊急時対策、というファイルを作ってきたのです。
そのついでに、やはり死後のこともこの際話し合っておこう、と提案したら、かなり積極的に毎回の帰国時に細々とした説明、要望を聞くことになりました。
はっきりいつだったかは思い出せないのですが、私はおそらく死に目には会えないけれど、そのあと必ず帰ってくるから、と言う話もしました。
そうしてくれ、と深く頷いていた姿が印象的でした。
今年に入り、一言いいたいことがあったのですが、唐突にいうのもおかしいし、さて、いつどのタイミングで?と思っていたら、夏前のメールでなんとなく流れがあったので
ずっといいたかったこと
私をこのように育ててくれてありがとう
と伝えました。
22歳で海外に出て、これまでも色んな難題、逆境を乗り越えてきたけれど、そのエネルギー、そして目標を定めたら諦めないところは、じいちゃんから学んだことなのです。
じいちゃんからは
このような娘をもったことを誇りに思います
との返信でした。
言えてよかった、と今でも思います。
もう二度と会えない寂しさはあるけれど、確実に自分の中に残っているじいちゃんの存在を信じて、また日々楽しく笑いながら、海外での生活を送っていこうと思います。
ふうちゃんとあーちゃんと私の残された水谷にはまだまだやりたいことが沢山でこれからも大忙しになるはずです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/1c/e12935b252d464aa4f2286fc2511b61b.jpg)
今年のお正月。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/c3/825cc211ad89ea093b4f504e0f8dfd43.jpg)
6月の北海道旅行。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/5d/6edaa7f2476572d011d451f38701f75c.jpg)
20年近く前。
スペインに帰る時は必ずみんなで成田空港まで来てくれていました。
素敵な大切な家族。
2019年10月18日。
享年77歳。
ありがとう、じいちゃん。
幾度となくピンチを乗り越え、リハビリを重ね、今年の6月はふうちゃんと北海道旅行も実現させました。
昨年の12月から意識的に頻繁に帰国して、様子をこの目で見ること、一緒の時間を作ることにしていました。なので、一回は子供達と、一回は家族全員でじいちゃんに会いに行きました。また今度、はないかもしれないと毎回思いながら。
それでも、次はないと思っていても、必ず「またね!」と言って、足腰が不自由になっていたこの7月も玄関先まで出てきてくれて手を振って車を見送ってくれていました。
その知らせはユイのお迎えに行った車の中でした。
義弟のさとしくんからの電話。表示を見ただけで何を伝えられるのか、わかりすぎるほどわかって、その後、どうやって家まで運転できたのか謎なのですが、止まらない涙と背中をさすってくれるユイの手が暖かかったことはしっかり覚えています。
おそらく、出し切った涙のおかげなのか、その後の行動は我ながら冷静で速く、翌日のフライトを抑え、仕事の調整をして、帰国。
冬からこれが5回目の帰国になりましたが、5回目はじいちゃんがいない帰国でした。
数年前に洗礼を受けたじいちゃんの葬儀ミサは、所属していた合唱団の方々、教会の方々、職場の同期の方々など、実に温かい雰囲気のミサ、そしてほぼ音楽葬のように音楽に囲まれたお別れ会になりました。
ここにじいちゃんがいたら喜んだだろうなぁとあり得ない想像までしてしまうくらい、本当に心こもった親密な葬儀でした。
遠く離れて住んでいる私は、親との別れがこういう形で来ることは分かっていて、その時自分が後悔することだけは絶対したくないと思って今でも過ごしています。つまり、会いに行けばよかった、話せばよかった、の類いは避けなければならない。その後一生後悔することになるので。
なので、病気になる前から、正確には8年前からいざという時の対処の仕方などを積極的にじいちゃんとしてきました。きっかけは2011年の東日本大震災。
あのとき、親と万が一連絡がつかない状況になったとき、彼らの友人関係などを知っておかないといけないな、と思い、帰国時に緊急時対策、というファイルを作ってきたのです。
そのついでに、やはり死後のこともこの際話し合っておこう、と提案したら、かなり積極的に毎回の帰国時に細々とした説明、要望を聞くことになりました。
はっきりいつだったかは思い出せないのですが、私はおそらく死に目には会えないけれど、そのあと必ず帰ってくるから、と言う話もしました。
そうしてくれ、と深く頷いていた姿が印象的でした。
今年に入り、一言いいたいことがあったのですが、唐突にいうのもおかしいし、さて、いつどのタイミングで?と思っていたら、夏前のメールでなんとなく流れがあったので
ずっといいたかったこと
私をこのように育ててくれてありがとう
と伝えました。
22歳で海外に出て、これまでも色んな難題、逆境を乗り越えてきたけれど、そのエネルギー、そして目標を定めたら諦めないところは、じいちゃんから学んだことなのです。
じいちゃんからは
このような娘をもったことを誇りに思います
との返信でした。
言えてよかった、と今でも思います。
もう二度と会えない寂しさはあるけれど、確実に自分の中に残っているじいちゃんの存在を信じて、また日々楽しく笑いながら、海外での生活を送っていこうと思います。
ふうちゃんとあーちゃんと私の残された水谷にはまだまだやりたいことが沢山でこれからも大忙しになるはずです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/1c/e12935b252d464aa4f2286fc2511b61b.jpg)
今年のお正月。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/c3/825cc211ad89ea093b4f504e0f8dfd43.jpg)
6月の北海道旅行。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/5d/6edaa7f2476572d011d451f38701f75c.jpg)
20年近く前。
スペインに帰る時は必ずみんなで成田空港まで来てくれていました。
素敵な大切な家族。
2019年10月18日。
享年77歳。
ありがとう、じいちゃん。
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