島便り

スペインはマヨルカ。2004年9月生まれの息子、2009年6月生まれの娘と、島出身のだんなとの4人家族の日々。

恩師の文字

2015年01月19日 | ひとりごと
先週の16日、高校の同級生からメッセージが届いた。
「靖子先生がお亡くなりになりました」

私には大切な恩師が6人いる。
中山靖子先生に初めてレッスンを受けたのは中学2年のとき。
私の高校受験のときに芸大を退官されているのでレッスンはいつも先生のご自宅。
9年間、高校、大学受験、ドイツ留学まで、お世話になった。
手元に先生と一緒に写っている写真があればそれを見ながら思い出に浸れるのだが、それらは実家にある。大学の卒業式に来てくださったときの写真、今度帰国した時に持ってこよう。

というわけで、先生の手書きが残されている楽譜を取り出してみた。
先生の手書きは常にカタカナ。



これはベートーヴェンの告別ソナタの楽譜で、芸大入試で弾いたため、三人の先生の手書きが残されている。
中山先生、高校の恩師、砂原悟先生、そして大学で師事することになる湯口美和先生。



カタカナが中山先生、几帳面な文字でいつも書いてくれた砂原先生。



湯口先生はいつも象形文字。

文字をみるだけで当時のレッスン風景が蘇る。

上記の砂原先生、湯口先生、どちらも長年中山先生に師事したピアニスト。
キャラクターは見事に違うが、求めるものは同じ。音質に特徴があり、柔らかいタッチ、音の幅、これらを徹底的に習った。

いま私がピアノを弾いて生活していけるのはこれらの恩師のおかげだ。

改めて御礼をいいます。
中山先生、ありがとうございました。
ご冥福をお祈りします。


MED

2014年06月08日 | ひとりごと
椎間板ヘルニアの手術から26日が経過。

日本に住む友人たちから「よく決心したね」と言われる事が多いので、ここで椎間板ヘルニア手術の概要を書いてみます。

怖い、と思うのは(実際、私も手術の話が出た時、かなり怖かったし、決心するのに時間がかかりました)従来型手術、つまり、がっつり切って、開いて、骨を触って、などなど、を想像するから。このパターンだと最低一週間は入院だし、日常生活に戻るのに数ヶ月、後遺症の心配あり。
これだったらやっていません。

最近は、MED(万国共通の単語。MicroEndoscopic Discectomy←アメリカで開発されたので英語の略語),日本語だと内視鏡下椎間板摘出術、これが主流です。内視鏡を使っての手術なので、非常にデリケート、スペシャリストに頼まないといけません。
がっつり切る事はなく、2センチに満たない傷痕ですみます。手術所要時間は1時間程度。

さて、スペシャリスト。
島だぞ。島。

あらゆる医者の知り合い、同じ手術経験者に話を聞きました。
彼らが口を揃えて言ったのは

「Dr.OLABEが執刀医なら大丈夫」

私の診断をしたのはまさしくこのオラべ先生。
日本にもこの手術のカンファレンスのため3月に来日したらしい。

これはお願いするしかない。
というわけで、とんとんと話が進み、今に至るわけです。

全身麻酔ですが、次の日には歩けます。
3日後退院。抜糸まで2週間。そこまでは安静に。その後は少しずつウォーキング。最初は10分でもふらふらします。これは腰がどうのこうの、というより、筋肉がなまっているからだそうです。なので、無理しない程度には動き出したほうがいい。4,5日経つと、日常生活はほぼこなせるようになります。

運転は明日から。長いドライブは禁物ですが、買い物、学校のお迎え程度はOKらしい。

オラべ先生の診察は6月19日。そこまでは一応病人扱いで、大学には行きません。で、20日から夏休み。
まったく休みを狙ったような休職です。



こういう「働けませんよ~」という書類を毎週職場にメールで送信。
必ず「お大事にね」と返信メールがきますが、実は元気。

しかし、元気でよかった。
休職、休暇が苦痛じゃない。
オラべ先生に感謝です。

さらばカタラン、あばよカタラン(長文)

2012年11月17日 | ひとりごと
今年の5月。怒涛のように受けていたカタラン語の試験期間。

知人から「この人に会いに行っておいで」とある人を紹介された。

ある人との面会は6月に行われ、今までの経緯、就職試験前の契約書、その後の契約書もすべて渡した。

彼女(ある人とは女性)は面会後私にこういった。

「私にすべてを一任してくれる?ただし結論が出るまでの期間、カタランは念のため続けておいて」

とても上の立場にいて多忙なはずの彼女、しかもスペイン人(正確にいうとマヨルカ人!)なのに夏休みあけから今どういう段階まで来ているかを丁寧に説明してくれる。

契約書に書かれている「3年以内にカタランCを取得すること」という3年が過ぎたのに学校側からは音沙汰なし。
同じ状況にいる同僚は6名。

10月末、ある人がとうとうこういった。
「近々学校側から報告があるはず」

そして驚愕の内容もその時点で聞くことになる。

これは法律で決まっているらしいのだが、公用語の取得の義務というのがあり、公的機関で働くものはその地域の公用語を取得することを強要されることがある。

ただし外国人に関しては、公用語を複数強要することはできない。
ようするに一つ取得できていればOK.

ここの公用語は

カステリャーノ(いわゆる標準語)とカタラン。

どう政権が変わろうとどうカタラニスタ(カタルーニャ独立支持者)が騒ごうと、この島からカステリャーノがなくなることはない。

そして私は列記とした日本人。
カステリャーノ取得の証明書は就職時にすでに提出済み。

つまり

最初から私には該当しない雇用条件だったのです!!!!

もちろん報告書には全員に該当する「音楽大学勤務の語学取得の条件」というのが書かれているらしいのだがあえてここでは省略。
私にとって大事なのは「該当すらしない」という事実なので。

そしてとうとう一昨日。
学校長から連絡が入りました。

すでに分かっていた内容を、さも初めて聞いたような顔をして聞きました。

「よかったわね~長い道のりだったけれど戦ってきた甲斐があった」

と、学校側が表立って戦ってきたようなことを言われ、それに関しても感謝感謝雨あられ的御礼を言ったが、本当はそうではない。
学校側は全くなにもしていません!!!!

目の前で膨大な報告書を読まれ、私たちの契約書に添付されることを聞いたので、その報告書のコピーがほしいというと、12月にあるpatronato(経営者団体)で可決したら渡す、といわれ

え?本決まりじゃないのー????

というと、本決まり確実だからこうやって正式通達してるんだ、
といわれ
さらに
急に経営者の半分が反対意見を唱えて可決しなかったら即効裁判になるから可決しないことはないです。

と断言した学校長。

報告書の最後にキラリンと光る政府の判子、その脇には

6月から親身になってくれた彼女のサイン。

勝利です!!!!

報告を受けるために呼び出しを受けた時は私は学校でレッスン中。

レッスンを中断して行ったためサックス科にあっという間に「ゆうこが呼び出された」と話が伝わり、校長室を出ると生徒たちが勢ぞろい。

で???

と聞かれ「ずっといるよーカタランなくなったよー」というと廊下中響き渡る声で

Siiiiiiiiiiiiii!!!!!!!!!!!!!

いやぁ嬉しかったです。

毎晩のカタラン地獄、土曜日の朝9時から行っていたカタランの授業からとうとう解放されるのだい。

正直まだ信じられないです。
無駄な時間とお金を使ってしまった、
とも言えるのだが、
ま、新しい語学、しかも地元の言葉をある程度分かるようになったといういい面もあるのでよしとしよう。




帰路

2012年10月12日 | ひとりごと


朝8時、子供達もNadalも出かけたあと台所の流し場から見る毎日のこの風景が、もう秋だと実感させてくれる...はず

なのに

暑いのなんのって。

ピアノを1時間も弾くと背中から汗がどっぷり。

どうやら今週末天気が荒れて気温もぐっと下がるといわれてるけれど、日本同様、今年の夏は長かった。

12月の帰国があと1ヶ月半後。
帰ったらどこに行こうかネット検索するのがもっぱらの楽しみ。
結は「トトロ」と「パンダ」と「ミッキー」に会いたいそうです。
分かりやすくてよろしい。
吉祥寺、上野、浦安ですね。

ナルくんは....

学校の方、しっかりやらないと連れていかないぞと日々言われているので、まだテスト期間。

フライトを手配したのは7月。
少々高くなっても、帰路、つまり成田からマヨルカに着くまで1回乗り換えで帰って来られることを条件に友達の旅行会社に頼んで手配してもらいました。

帰路のフライト予定は

成田👉パリ(シャルル・ド・ゴール)
ここで空港バスに乗りパリ(オルリー)へ向かいマヨルカへ。
荷物は成田からマヨルカまでスルー。おまけに値段もリーズナブル。

これだったら私一人でも大丈夫、と思っていたのに

昨日、その友人から

「優子、バッドニュース」

オルリーからマヨルカの便が欠航になったよ。

言われたフライトは

成田👉パリ(シャルル・ド・ゴール)👉バルセロナ👉マヨルカ

嫌だー嫌だー嫌だーーーーー!!!!!

バルセロナ乗り換えだけは勘弁!だったのに。

子連れの二階乗り換えは地獄です。親子共々グッタリしている上、機内で寝てしまって抱っこしなければいけない状況になったら(というか必ずなる)それだけで大変なのに、無用にデカいバルセロナリニューアル空港(こんな無駄遣いするから金がないスペイン)、ああ、考えるだけでグロッキー😱



送る気持ち

2012年03月30日 | ひとりごと

22歳のとき、かれこれ17年前ですが、私は日本を出ました。

1995年7月にあったドイツのフライブルグ音大の受験のため、出国したのは6月4日。

成田空港には、両親、妹のあーちゃんのほか、芸大の同期生が見送りにきてくれた。

ゲートをくぐるそのとき、同期の友人が号泣した。

一人で行く海外。不安はいっぱい。泣いてる場合じゃない私はそのまま荷物を片手に飛行機へ乗り込み、ひと段落したとき、友人がくれた手紙を開いた。

励ましの言葉が沢山書いてあったその手紙を片手に飛行機で一人涙。隣に座っていた人(出張で慣れてる感じのおじさん)が「一人で初めての海外ですか?」と聞いてきたくらい、長いこと涙を流した。

そのとき渡された手紙は今でも大事にとってある。

1997年9月。留学期間を終え、NadalのいるMallorcaへ渡ることに。出発は9月16日。

このときも、フライブルグの中央駅まで音大の友人たちが見送りにきてくれた。

小さいころからじいちゃんの仕事の都合で転勤が続き、見送られることに慣れてきた私。

そんな私が、おそらく初めて人を見送る経験をしました。

マヨルカの数少ない気心知れた日本人友人の一人、たまき。

彼女が来週からペドロの仕事の都合で本土のムルシアへ引っ越すことになったのです。

このBlogでも何度も登場しますが、完全なる信頼をよせるたまきといずみさん。スペイン人の友人にも恵まれながら、心の支えとなっているのは、やはりこの母国語仲間。

ナルを身ごもっている時からのお付き合いなので、かれこれ8年???に渡り、苦楽を共にした友達です。

ムルシアは近い。飛行機でいけばたかだか40分の距離。

でも正直、とっても寂しいです。小学生みたいな感想ですが、この言葉しかない。寂しい。

見送る人の気持ちをしみじみと味わっています。

また近々会おうね。そしてありがとう。

 


すっかりスペイン人

2011年09月28日 | ひとりごと

あーーー、あのすばらしいヴァカンス期は何処へ・・・

・・・という台詞を吐くと「きみもすっかりスペイン人になっちゃったね」とNadalにいわれる今日この頃。

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否応なしにやってきた新学期。そしてシーズン2011ー2012.

新学期間際に結さんがおむつを卒業。いやいや、しかし、1週間は目が離せず、朝晩、ばたばたしていましたが、成功率高く、少し息をついた矢先。

ナルが学校のプール(が原因だと思われる)で、鼻風邪→咳の嵐。

私は結膜炎をもらい、左目がまさに御岩さんのようになり、そのあと高熱。

その後、なににあたったか、夜中の4時にゲリラに合い、下痢と格闘。高熱。

ほっと一息の昨日でありました。

ふたと開けてみると、今シーズンはわりと飛行機使用の多いシーズンで、1ヶ月に一度飛んでる感じ。

(ここの飛行機はバス感覚だけれど)

 

来週から仕事に完全復帰しますが、その前に。

実は、ここで一度も登場していませんが、私には二つ違いの妹がいまして

彼女はご主人(日本人)とパリに住んでいるのだが、彼らを訪問するため、この週末、一人でパリへ行ってきます。

パリといえば買い物。買い物リストがながーーーくできております。

時間がないので、全部制覇はできないとしても、楽しみ楽しみ。

 


今出来ることを考える

2011年03月20日 | ひとりごと
あれから9日が経過。
 
まずは東日本大震災で被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。
 
海外にいる私たちに出来ること。
祈ることのほかになにが出来るか。
 
私個人の意見だが、なによりも最優先するのは被災地で不自由な生活を送っている人を助けること。
 
スペインのあるキャスターが番組中に解説者にこういった。
「原発の解説を頼んでいてこういうのはなんだが、今、私たちが出来ることは日本を応援することではないのだろうか」
 
今、自分ができること。
職業のピアノを生かすことしかできない。
地震あって、母の実家がある宮城のことが気になり、おまけにちょうど本番が続いたこの1週間。
頭ににはあったけれど、実際行動できないでいた。
 
先週の木曜日あたりから、頭にずっとあったプランを実行に移すことにした。
 
音楽家なら誰もが考えるチャリティーコンサート。今、協力アーティストたちと日にちを調整中。
 
そんな話をママ友にいったら、その話がまわりまわって、息子の小学校の校長先生にまで伝わった。
今日、彼女(シスター)から、「YUKO,学校は全面協力するわよ」という力強いお言葉をいただいた。
 
合唱団の仲間も同じ意見だ。
 
団体の力、そして、14年目の海外生活を支えてくれた家族、仲間たちが、母国への援助を惜しまない姿勢に
心から感謝する日々だ。
 
日本にいる人たちは今、被災地の人だけでなく、いろんな不安を持って毎日を過ごしていると思う。
 
だから、海の外にいる私たちは
 
前を向いて歩かないと。

BS朝日 米倉涼子未来街道を行く

2011年02月17日 | ひとりごと

                           BS朝日の画像より

 

昨年の夏、ドイツに遊びに行ったときに、この女優さん、そうです、米倉涼子です、が、フライブルグに来ておりました。
 
なんで???
 
というのは、私は岡部さんからドイツに行く前にちゃんと聞いていたので知っていたのだが、BS朝日の番組撮りに、ということだった。
 
その撮影の日は、私たちは市内散策をして、お昼をフライブルグで有名(というか、結構各地から来る人がいるらしいけれど)な、お寿司屋さんにご飯を食べに行っていたのだが、そこに沢山の日本人がいて、もしかしてこれは番組関係者か?という話をしたけれど
その中に米倉涼子がいたかはよく覚えていない。岡部さんがいうには、茶髪のちょっと綺麗な子はいたかな・・・?という程度。
つまり
「あーーーー米倉りょーーーこだーーーー!!!!」と大声をあげるような人はその集団には見当たらなかった(ま、じろじろ見なかったというのもあるけれどね)。
 
ただ、フライブルグを取材に来る、というのなら、あ、そうなんだ、米倉涼子が来るんだ~で終了なのだが
 
なんと、取材に来るお宅というのが、岡部邸の隣人。本当に本当にお隣さん。
私もテラス越しにハロ~くらいいったことあるあの隣人宅に米倉涼子が来るだとーー!!!と、ミーハーおばちゃんたちは盛り上がった(←岡部さんも結構ミーハー)
この隣人さんのお嬢さん(インタビューされていたので映るかも)は、岡部さんのピアノのお弟子さんです。
 
撮影時間は、隣人が岡部さんに連絡してくれていたので、こちらは完全にスタンバイ(してどうするというのだろうか・・・)。
子どもたちを、わざとらしく、外で遊ばせたりしてね。
 
で、来ました、来ました!ご一行さん。
 
 
あれ・・さっき、お寿司屋さんで見た人たちじゃないか。
 
やっぱりあの人が米倉涼子かぁ・・・と思った理由は、やっぱりメイクでしょうか。
ほとんどスッピンで撮影してたと思うな。でも綺麗だったけれど、テレビでみるオーラ、みたいなものはなかった。
ただし。
すんごくスタイルがようございました。
この上の映像そのものを、私たちは子どもを岡部邸の砂場で子どもたちを遊ばせながら、下から見てたよ。
 
で、この収録番組が、この日曜日に放映されるらしいのでお知らせです。(・・って私が映っているわけじゃないが、岡部さんの家は確実に映っています)
 
2月20日(日)よる9時~10時54分 
BS朝日(BSデジタル5ch)
EARTH friendlyスペシャル
米倉涼子 ドイツ未来街道を行く
 
フライブルグのほかの街もまわっているので、フライブルグは後半になる感じがするけれど。
 
実家にいって、「録画しておいて!」といったら、録画する機械がない・・・といわれました。
誰か録画してくださーい!
 
おまけ。
今、コマーシャルでこの番組をやっているらしいのだが、米倉涼子が番組宣伝をしている後ろで、うちのナルきちくんが走りまわっているそうです。
ああ、見たい。