![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/41/422a4e0cdec07cebae2d5c2bed695558.jpg)
元日には兄弟全員が田舎に集まり、
おせち料理などをご馳走になりながら、
世間話をしつつ兄弟の近況などを話し合う。
昼食後は賄用の畑から、手土産用の大根を抜いてきたり、
たわわに実った八朔を収穫したりして、車に積み込んだ。
さらに、今年は豊作だったとの事で、精米した米を30kg近く戴いてきた。
手土産関係を積み終わるとすることもないので、
近くの「大生郷天満宮(おおのごうてんまんぐう)」に初詣。
家の近くを流れる東仁連川(ひがしにれがわ)に沿って東進すると、
川の近くに天満宮はある。
元旦とあって、下の写真のように道路はがらがらで、
午後14時を過ぎていたことから、
初詣は楽に済ませるだろうと・・・・・
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天満宮の周辺は駐車スペースがなく、
やや離れたところに駐車した為、女坂から境内に入った。
本殿の先が拝殿でその方向に向かっていくと・・・
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拝殿前には参拝客が列を作って並んでいた。
鰐口(神社のお参りのときに紐を引いて鳴らす銅鑼)が2個しかなく、
いっぺんに参拝できるのは2人だけだったのである。
明治神宮のように賽銭箱にお金を入れて礼拝するだけの方式かと思ったのだが、
天満宮は一人ひとりが鰐口を鳴らし「2礼2柏手(カシワデ)1礼」の、
参拝方式を行なっていたが、このような初詣は初体験だった。。
参拝客は一の鳥居の外まで並んでいた。
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故郷の名刹なのにこれまで一度も来た事がなく、
学問の神様としてのご利益はもう不要かなと・・・・
待つことの嫌いな私は帰ることを兄に上申したが、
結局は「2礼2拍手(カシワデ)1礼」を。
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並ぶこと約40分、今年の初詣は無事に終了した。
で・・・
常総市の教育委員会の立てた看板には以下のような文が記されていた。
大生郷天満宮は、延長七年(九二九)、
右大臣菅原道真の第三子三郎景行(さぶろうかげゆき)の創建とされる。
遺族の手による、また遺骨を祭祀していることから、
数多い天神社の中でも日本三大天神の一つとされ、「学問の神様」として広く知られている。
道真が九州大宰府に憤死(延喜三年-九〇三)して後、
景行は役人として常陸国に赴任。
延長四年(九二六)、現在の真壁町羽鳥に遺骨を祭祀したが、
延長七年家臣数人とともにこの地に足をとどめ、
飯沼畔の景勝地でもあった高台の現在地に道真を祀った。
その後、当地南方に天満宮の守護のため、
「安楽寺(あんらくじ)」(現在の正覚山安楽寺-元三大師)を建立し祈願寺とした。
東方1キロの「三郎天神社」は、後世三郎景行の供養のために建てられたものである。
本殿、拝殿等は天正四年(一五七六)の兵火のために焼失。
その後、下妻城主多賀谷氏の援助により再興されたが、
大正八年(一九一九)、再度の火災により社殿は焼失し、往時の姿を偲ぶことはできない。
大生郷天満宮には、「御廟天神画(ごびょうてんじんが)」(県指定文化財)、
「神酒天神画(みきてんじんが)」(同)、「北野天神縁起絵巻」(同)、
「三十六歌仙絵」(同、多賀谷氏寄進とされる)、
あるいは、画幅「十一面観音像」(市指定文化財)などの貴重な文化財が保存されている。
初詣、正月二十五日の「初天神」、あるいは八月一日の「八朔祭」には大勢の参拝客があり、
境内は大変な賑わいをみせている。
常総市観光協会
常総市教育委員会
まず、菅原道真の遺骨が祭祀されていることに驚いた。
江戸時代に干拓されて今は見る影もない「飯沼」や、
「下妻城主多賀谷氏」などは、
元飯沼村生まれで下妻の高校に通った私としては、
知っていて当然といわれても仕方のない大生郷天満宮だったのである。
また、常陸国に役人として赴任した景行が住んだ真壁は、
当時の豪族で平将門の父に当たる良将(よしまさ)の豊田の館に近かったため、
親交があったとされ、将門は景行から学問を授かっているようである。
と・・・道真が平将門との縁があったのも興味深い。
さらに、暇に任せて大生郷天満宮の近隣の地図を調べていると、
「神田山」「神田山新田」という地名を見つけた。
もしかすると、将門が祭祀されている「神田明神」に関係しているかもと、
調べてみると・・・
『神田明神の「かんだ」とは将門の胴体、
つまり「からだ」が変化して生まれた言葉という説があり、
坂東市内の胴塚周辺の地名は「神田山(かどやま)」』である。
(ウィキペィデア「平将門より」引用)
との記述を見つけた。
帰り際に引いたおみくじは人生初の「大吉」だった。
神仏信仰もなく占いなども信じないが、
心地よい2文字には違いなかった。