「鍋島」は、ヨーロッパの王侯が珍重した古伊万里や柿右衛門様式の焼き物よりもっとハイグレードな、限られた日本のトップ階層にだけ流通していた特別な磁器であった。
東洋陶磁器美術館の全景
その「鍋島」の第2章は、成長期~藩窯の移転と生産体制の確立[大川内初期鍋島]とあり展示点数は52点である。
1659年頃から鍋島藩は、窯業界の再編を進め、将軍家献上という特別な磁器製作技術を持った藩窯を民窯から切り離し、技術漏洩を防ぐため伊万里の大川内山に移転させたという。
延宝期(1673~81年)の八角皿
確かに、いままで見たことも無いような奇抜なデザインの磁器が多数展示されていたが、今でもこれだけの独創性を持った絵師はいるのであろうか。
延宝期の皿
第3章は、隆盛期~綱吉と元禄・鍋島様式の完成[大川内盛期鍋島]とあり展示点数は100点という大量の作品が展示されていた。
5代将軍綱吉時代の元禄期(1688~1704年)には、将軍が大名屋敷へ盛んに訪問するようになったために、その際に献上する鍋島の需要が高まったという。
元禄期のタンポポ文様の皿
鍋島藩は、その需要に沿うように藩窯の強化を行い、それまで技術的に難しいため生産量が少なかった大皿を多く製作しはじめ、代表的な色鍋島の多くがこの時代に生産されている。
元禄期の水草文の皿
特に3階に展示されていた作品は、鍋島の最高傑作ばかり集められていたようで、パンフレットにある色絵桃文大皿の実物がやはり素晴らしかった。
3階へ上る階段の前にもその写真が大きなパネルで紹介されている。
2階には鍋島以外にも常設の展示室が3室あり、重要文化財もあったが、焼き物の芸術的な美しさは、鍋島のほうが遥かに上である。
第4章は成熟期~吉宗と鍋島焼の成熟[大川内中期鍋島]という展示で展示点数33点。
享保期の桃文の皿
8代将軍吉宗が将軍(在位は1716~1745年)になると、幕府財政を立て直すため、徹底した倹約令を出し、贅沢を禁じたために献上される鍋島焼も色数の多い色鍋島が禁じられたために鍋島焼は主に染付と青磁と地味なものになっている。
享保期の大根文皿
5章 衰退期~「家治好み」の新鍋島様式[大川内後期鍋島] 展示点数20点
田沼意次が権勢を誇る10代将軍家治時代(1760~1786年)、将軍家御好みの意匠12通りの手本が幕府から示され、以後の将軍家献上のための新しい鍋島スタイルができあがったが、この頃から鍋島の衰退が始まったという。
明和期(1751~1777年)の5葉松文皿
午後の始業に間に合うように東洋陶磁美術館を出ると、正面の中央公会堂ではデザインスクールの卒業式をやっていた。
始業時間に遅れないよう急いで会社まで戻り、席に着くと丁度1時であった。
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