JR甲子園口から南に歩いて10分のところにある武庫川学院 甲子園会館は、建築家フランク・ロイド・ライトの愛弟子、遠藤新が「甲子園ホテル」として設計したもので、1930年に竣工している。
建物は、西洋建築と日本建築を融合した独創的なデザインで、屋根には淡路産の緑の瓦、竜山石と素焼きタイルの壁、シンボルの打ち出の小槌のオーナメントが随所に見られるなど、洋式建築に巧みに「和」の要素が取り入れられている。
屋根の拡大
シンボルに採用された童話一寸法師で有名な打出の小槌とは、西宮市の隣にある芦屋市打出小槌町にちなんで選ばれたのであろう。
西ウイング南入り口の壁面レリーフ
竣工後、帝国ホテルの支配人であった林愛作が、甲子園ホテルに移り支配人となり戦前は帝国ホテルと並ぶ日本屈指の超一流ホテルであったという。
北側
戦時中の1944年には海軍病院として接収され、終戦後はアメリカの進駐軍が将校の宿舎とクラブとして使っていたらしい。
西ウイング上部の壁面のレリーフ
1957年になって国有財産となり、大蔵省の管理下に置かれたが1965年、武庫川女子学院が取得して現在は生活環境学部建築学科、生活環境学研究科のキャンパスとして使われているという。
西ウイング
設計者の遠藤新は、東大建築学科を卒業し明治神宮の建設に関わった後、帝国ホテルの設計を引き受けていたライトの設計事務所に1917年から勤めている。
南バルコニー
しかし、建設費用がかかり過ぎるとしてライトは途中で解雇され、米国に帰国してしまうが、遠藤ら弟子が設計を引き継いで帝国ホテルを完成させたという。
世間ではあまり知られていないが、フランク・ロイド・ライト設計の有名建築帝国ホテルの実際の設計者は、日本人の遠藤新であったのである。
遠藤は、その後もライト様式の建築を設計し続けたため、ライトの使徒とも呼ばれ、ライトの基本設計を元に自由学園、山邑邸等を完成させている。
南側
1945年、満州で終戦を迎えたが、半年後に日本に帰国し、1949年からは文部省学校建築企画協議会員を務め、1951年東大病院で死去している。
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