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四天王寺へは鎌倉時代に入っても、後白河法皇や貴族の参詣が跡を絶たず、1195年 には将軍頼朝も参詣しているという。

四天王寺の中心伽藍



鎌倉時代に四天王寺の隆盛に努めたのは、九条兼実を兄に持つ天台山門の学問僧 慈円で、1207年と1213年の二度、四天王寺の別当(住職)に就任している。

鎌倉時代後期には、律僧の叡尊や忍性が四天王寺の再建に活躍し、西門の石の鳥居は1294年忍性によって木の鳥居から建て直されたものというので、鳥居は713年も前からあったことになる。



南北朝時代、 四天王寺も吉野方と足利方の戦いに巻き込まれ、南北朝統一までに京都と吉野の中間にある四天王寺周辺は何度も戦場化している。

南朝の後醍醐天皇は、1330年頃に四天王寺に立ち寄ったとき「四天王寺縁起」を見て感銘を受け、その内容を筆写し自らの手印を押している。



これが現在残る「四天王寺縁起後醍醐天皇宸翰本」で、天皇の手形のある貴重な文書ということから国宝に指定されている。

国宝を保管している宝物館



四天王寺は足利将軍家ともつながりを持ち、1388年には足利義満が四天王寺領の課役免除の御教書を下し、翌年には参詣したといわれている。

室町幕府8代足利義政は、就任後次第に政治への熱意を失い、畠山管領家の相続争いが起きたために四天王寺は畠山氏によって1460年に焼かれている。

講堂



1465年には山口の大内政弘が、日明貿易(勘合貿易)をめぐって細川氏と争い畿内各地を転戦、1470年には四天王寺に放火している。

それから100年以上を経た1576年春、信長軍が石山本願寺を包囲した時に、本願寺軍は織田軍の四天王寺砦まで攻め入り、今度は仏教を信仰する本願寺軍によって四天王寺は又も焼失している。

西重門と5重塔



秀吉の天下統一で四天王寺伽藍再建の諸国勧進が行われ、関が原合戦のあった1600年ようやく再建が成ったという。

四天王寺に残っている豊臣秀吉自筆という『四天王寺造営目録』によると、伽藍と主要な堂宇が一旦再建されたが、又しても1614年の大坂冬の陣で大坂方の放火に遭って焼失している。

金堂



大坂という重要都市にある大寺院は、時の権力者の権力闘争に翻弄され何度も焼失を繰り返した歴史を有しているのである。


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